田原坂と山鹿を抜かれた西郷軍は一時総崩れとなったが、熊本の南方で体制を持ち直し、大津から御船に至る二十キロの防衛戦を敷いて、官軍を迎え撃つ体制を整えた。その際の西郷軍の兵力は一万を割っていた。一方官軍は数万の兵力を擁し、西郷軍を一気に叩き潰そうと意気盛んであった。
戦局が大きく旋回したこの頃の様子を、学海先生は四月十八日の日記に次のように記している。
「去る十四日、八代口の官軍、黒田参事をはじめ諸将熊本に入る。同十五日、植木・木留の官軍もまた入る。賊はきのふまで要地を占めたりけるが、いかにしけん、植木・木留はさらなり、熊本城まで、さしも勢盛んに防ぎ戦しもの、一人ものこるものなく引退きぬ。思ふに賊将力つきて、城兵すでに囲をつき出たれば、今は向ふべくもいあらず、一まづ兵をまとめて後計を為す可しと計りしにや」
西郷軍と官軍は十九日から二十日にかけて激突した。西郷軍は健闘したものの、物量に勝る官軍に抗しようもなく、劣勢が進むのを如何ともなしがたかった。 桐野は本営の木山で討死する覚悟を決めたが、村田新八らの建言で三州盤踞策をとることとした。三州盤踞策と言うのは、薩摩・大隅・日向三州に兵を分散し、いわばゲリラ戦を仕掛けようという策である。
このことについても学海先生は、四月二十三日の日記の中で触れている。
「新聞を見るに、賊徒熊本を去りしより日向に入りたるよし聞へしかど、二千、三千の余党ここかしこに屯して、なほ官軍と交戦す」
そして西郷隆盛の生死についても言及している。
「賊首西郷はいづこに在るを知らず。或はいふ、既に死したりと。たしかなることを聞かず」
そんな折に兄の子の貞が戦死したとの知らせが入った。先生が驚いて兄のもとに駆け付けると、兄は戦死の際の様子を書き記した手紙を示した。それには
「廿日保田窪の一戦は賊徒諸攻口を引去りしのちにありて最はげしき戦にて、一旦賊塁をとり得しかど、またかへし来て、戦鋒甚強く味方死するもの多く、貞は右の眉の上に砲丸中りて、息あること僅二、三十分にして死せりとのせたり」とあった。
それを読んだ先生は、
「戦死のありさま、さこそゆゆしかりつらんと思ひやらるるなれ」といって嘆息したのであった。
甥を殺された先生にとっては、西郷は仇というべき存在のはずだが、先生には西郷を憎む様子は見えない。かえってその人徳に恐れ入っている。修史局の同僚四屋恒之の従弟が鹿児島で見聞したことを先生は日記に紹介しているが、それを読むと先生の西郷を畏敬する気持ちが伝わってくる。
「国人西郷に服することは、世に伝ふるに弥増たり・・・西郷国を出でしより国内甚穏にして、常にかはりたる事なし。ただ日に西郷が消息をまつのみ。県官も、これが兵を率ておもむきしをさせる事とも思はず。かれ入朝して国政を改革せん事遠にあらず、譬戦起るとも久からず休戦に及ぶべしと思へるさまなり」
歴史の常識では、柳原と黒田が島津久光に面会し、西郷への協力をやめさせたということになっている。そのため西郷軍は根なし草のようになり、兵力や食料の調達に支障をきたしたということだが、実際には、西郷軍はその後も鹿児島で兵力の補充や食料の調達なども行っているようである。そういうことができたのは、西郷がいまだ鹿児島の人々に見放されていなかったことを物語っている。上の証言は、そのひとつの裏付けとなるものであろう。
西南戦争さなかの五月二十六日、木戸孝允が死んだ。その知らせを学海先生はその日のうちに知った。
学海先生は、木戸孝允と親しく交際していたわけではなかったが、どういうわけか木戸個人には親愛の感情を抱いていた。木戸といえば王政復古の最大の立役者の一人であり、佐幕派だった学海先生にとっては敵方の統領のようなものだったはずだが、先生は木戸に敵意をいだくどころか、親愛感を抱いていたのだった。先生の日記には、木戸に対するそのような親愛の感情を感じ取ることができる。
「従三位木戸公孝允薨ぜらる。余、公を知りしは今を去る八、九年の頃にして、諸友と芝増上寺に会せし時なりき。かの人温厚にして珍重、物と忤ふ事なし。功業に誇らず、尊貴を高ぶる事なし。詩をよくし書をよくす。増上寺の会席にて数十紙を揮はれしが、雲煙飛舞して未だ片刻ならず、数十紙尽く書終われき。余とはこの時一面識なかりしかど、何とやらん慕はしきやふにて、懇にものがたりせられたり。その後幾年か経て、去々年地方官会議を起されしとき、公、議長たり。余、不時に召されて書記官に拝せられ、太政官に拝謁す。久しく見まゐらせず、恙なくめでたく候と、ねもごろに式代せられ、会議の次第など議し申せしとき、余は新任の人なれば遥に末座にありしが、ことさらに余を呼びて、君はこの事をいかに思ひ給ふやなど問はれしことあり」
このように学海先生と木戸との交際はわずかに袖を触れ合わせた程度であったが、先生はなぜか木戸に暖かい親しみの感情が湧いてくるのを覚えるほど、親愛感を抱いたものと思われるのである。
こんなわけで、木戸の法事が行われると聞いた時には、遠慮していたのだったが、木戸の継嗣正二郎の代理人山尾某から案内状を貰い、急ぎ法事に参加すべく出かけたのであった。
法事は麹町一番町一番地に完成したばかりの木戸の新邸で催された。この新邸は木戸自ら先頭になって作ったものだったが、木戸が天皇に随従して上洛し、その後病気が悪化した時に、工事を一時差し止めてはと家人が忠言した。ところが木戸は、もし自分がこのまま死んだとしても、ここまで進んだ工事を中断するのは残念だ。第一自分が死んだとしても、後で住むことになる人が、中途半端な造りでは迷惑するだろう。そう言って工事を続けさせ、木戸の死後まもなくして完成したということだった。それを聞いた学海先生は、木戸のおおらかな性格にいまさらながら感心したのであった。
木戸の葬儀と前後して、学海先生は親友川田甕江及び隣人成島柳北と、三人で両国の料亭に飲み、親しく時事を談じたことがあった。
「木戸公が亡くなられたことは実に残念なことであった。公はそれがしとは一つ違いじゃによって、まだ四十半ばの男盛りでござる。その若さで死ぬとは、ご本人も残念じゃったろう」
そう学海先生が、木戸の死に話を向けると、川田甕江が相槌をうって、
「拙者は木戸公からは陰に日に目をかけてもらいもうしたので、日頃恩義を感じており申した。それ故残念という気持ちより、悲しい気持ちのほうが強い」
すると柳北居士が口を挟み、
「まあ、木戸さんは王政復古の立役者ゆえ、あの人の死は色々な意味でこの国の未来に影響するでしょうな。聞くところによれば、木戸さんは政府のなかでももっとも物分かりのよいお方と聞いておる。いまの政府は大久保さんを筆頭に改革に前のめりになるあまり、色々と軋轢を生じさせておる。西郷さんが政府にたてついておるのは、その最たるものじゃ。そういう動きに対して木戸さんは、比較的鷹揚に構えておったと聞いてござる。こういう人がいなくなるのは、日本という国にとって損失かもしれませんな」
「木戸公は亡くなるときに、西郷もいい加減にせんか、と言ったそうじゃが」
学海先生がそういうと、川田甕江が
「木戸公にとって西郷は王政復古の大業を為しとげた仲間のうちにも、もっとも頼りにしておった人じゃと言われる。本来なら自分と共にこの国のかじ取りをしていくべき立場にあったものが、このように逆賊の汚名を蒙りながら、政府に盾つくような次第に陥った。木戸公としては、惻隠の情に耐えなかったということではないかの」と引き取った。
一方成島柳北はジャーナリストらしく、
「いまの政府は有司専制と言うべきもので、国民を力づくで威圧しようとしておる。我々新聞人は国民の意見をもっとも正直に代表するものゆえ、国民への弾圧は我々新聞人への弾圧となって現われる。拙者もその弾圧を受けて牢屋へ四か月も放り込まれておったが、そうしたやり方は、木戸さんがいなくなればもっと露骨になるのじゃなかろうかと、実は大いに心配しておる」と言った。
「いまは政府を挙げて西郷と戦っておるが、それには日本中から兵士が集められておる。拙者の甥も先日の保田窪の戦いで戦死したのじゃが、いまや国民の多くが西郷を朝敵と思っておる。その反動として政府を支持させるようにと、政府としてはぬかりがない。つまり西郷との戦を利用して、国民の政府への支持を取り付けようと図っておるわけじゃ。それを指揮しているのは大久保じゃが、大久保は西郷とは竹馬の友と言ってよい。その大久保が西郷を自分の専制を固めるために利用しておる、というのが実情ではあるまいか。それがしはどうも、そんな大久保が好きになれぬ」
そう学海先生が言うと、川田甕江は、
「木戸公も大久保を好いてはおらなかったようじゃ。大久保には実にいやらしいところがあるようじゃて」と感想を述べた。
すると成島柳北は、
「西郷さんはいずれ敗れるでしょう。そうなれば、木戸さんも死んだことだし、大久保に匹敵する人材はこの国にいなくなる。みな大久保の言いなりだ。政府はますます抑圧になるのじゃなかろうかと、我々新聞人には頭の痛いところじゃ」と引きとったのであった。
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