岡本喜八は「独立愚連隊」シリーズで日本軍をコミカルに批判していたが、「肉弾」はそんな岡本の戦争批判映画の傑作だ。この映画を通じて岡本は、日本軍を批判するとともに戦争そのものの愚かしさを痛烈に描き上げた。
肉弾というのは、特攻の一つである。特攻といえば飛行機に乗っての体当たりが有名だが、この映画のなかの特攻は、魚雷で敵の艦船に体当たりするものだ。どちらも人間が身をもって敵に体当たりして玉砕する点では似ている。
特攻は、戦争末期に捨て身の先鋒として生み出されたが、この映画のなかの肉弾攻撃は、敗戦が明らかとなり、本土決戦が叫ばれるようになって、その決戦要員に選ばれた青年の物語である。
寺田農演じるこの青年が、粗末な魚雷を宛がわれて、敵空母へ体当たりすることを命じられる。時は大戦末期。広島・長崎に原爆が落とされたことを皆知っているから、日本の敗戦が避けられない時点でのことだ。にもかかわらず日本軍は、兵士に捨て身の自殺攻撃を命令する。命令された兵士の方は、その命令を、大した疑問もなく受け入れる。かれにとっては、粗末な魚雷、それは魚雷型爆弾にドラム缶を括り付けただけの粗末な代物なのだが、その粗末な代物を操って敵艦に体当たりすることを意味する。成功すれば自分の身は破壊されるし、成功しなければ海上を意味もなく漂い続けるだけだ。
この兵士は、命令を受けてから実際に出動するまでに、いくらかの時間の猶予を与えられ、その間にある少女(大谷直子)との間に愛を育んだり、一少年との淡い友情を育てたりする。とくに少女との愛は、これから死にゆく身にしても、生きている間は、自分に生きる意味を与えてくれる尊い関係だ。しかしその少女も、また少年の兄も、敵の空襲によって殺されてしまう。
あらためて敵への復讐心に燃えた兵士は、与えられた粗末な魚雷に乗って、海に乗り出す。もし敵艦がやってきたら、すみやかに近づいて魚雷を発射しなければならない。そして、その敵艦は眼の前に見えた。もっともそれは彼の幻視で、実際には小さな漁船だったのだ。しかもその漁船に向けて発射したつもりの魚雷は、あらぬ方向へ向かったばかりか途中で沈んでしまう。途方にくれた彼のもとへ、漁船の船長が近づいて、戦争は終わったと告げる。
敗戦を知って脱力感に見舞われながらも、兵士はなんとか生きる気力を奮い立たせようとする。しかし彼の気力のなさを見越したように、ドラム缶を船に結び付けていた縄が切れ、彼を乗せたドラム缶は黒潮に乗って漂流を始める。
そして二十数年後の1968年、そのドラム缶が湘南の海に漂着する。中には、いまや白骨と化した青年が、海上で遊び騒ぐ若者たちをよそに、髑髏に眼鏡をかけたままの姿勢でうずくまっていたというわけである。
こういうわけでこの映画は、戦意豊かな一青年を通じて、戦争の愚かさと、その愚かな戦争を強いる軍部の不条理さをとことん批判したものである。
映画の大部分が、寺田農の一人芝居からなっている。この映画は、寺田の演技力に支えられている面が強い。
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