改元を考える

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この元旦は例年通り早起きしてNHKの能楽番組を見た。今年の出し物は羽衣。八年前の元旦にもやっていた。その時は梅若万三郎がシテをつとめていたが、今年は観世清和がつとめた。どちらもすばらしい演技ぶりだ。観世清和は、オールラウンドの芸風で、女の役をやらせてもうまいし、また直面でもさまになる。さすがは観世流本家だけある。声に艶があるのは天性だろうが、その声で人の耳を驚かし、色気ある仕草で人の目を喜ばしむるわけだ。

舞台は前年銀座にオープンしたばかりの観世能楽堂。松の図柄が他の能楽堂とは違ってモダンな感じを抱かせた。小生は渋谷にあった観世能楽堂には随分足を運んだものだが、銀座のこの能楽堂にはまだ行ったことがない。そのうち足を運んで清経でも見たいものだと思う。

夜は改元を考える番組を見た。これは現在の改元制度が今後も続くことを前提にして、今年の五月に予定されている元号がどのようなものになるか予測したものだった。予測といって語弊があるならば、その文化的・歴史的な意義づけというような議論だ。

現在の元号制度が中国のかつての元号制度の強い影響を蒙ってきたことは明らかなことである。漢字二文字からなること、中国の古典に根拠を有すること、革命思想にもとづいて甲子の年には必ず改元されたことなどである。それにあわせて改元の理由として、代始改元、災異改元、祥瑞改元などがあることが紹介され、改元が天皇の政治的・文化的威信と深く結びついてきたことが強調された。織田信長は、天皇に改元させることで、自分自身の政治的立場を強めたというようなことも紹介された。ことほど左様に、改元は日本人にとって魔術的な作用を及ぼしてきたというわけである。

この番組を見ていて小生は、いつまでも中国の真似をしていて、漢字二文字の元号に固執していないで、日本らしい年号を採用してもいいのではないかと思ったりした。たとえば、元号を和語で表すとかいったことである。そうなれば、中国の古典ではなく日本の古典、たとえば古事記とか万葉集が元号の典拠となるわけで、それも純粋な和語、たとえば「のぞみ」とか「さきがけ」とかいった言葉が元号となる。それも面白いではないか。面白いといって語弊があれば、日本らしいと言い換えてもよい。

かつては、元号には、いまとは比較にならないほど大きな意義があった。ということは、単に短期的な時代区分をあらわすにとどまらず、運命を占ったり、今で言えば「世紀」に相当する長期的な時間感覚を表現してもいた。キリスト教国が百年単位で「世紀」ととらえている時代感覚を、日本では、暦が一巡する六十年ごとにとらえていたわけだ。たとえば、文化甲子の年に始まる六十年とか、元治甲子の年に始まる六十年とかいった具合である。今では、天皇の代始改元が制度化されたために、そういう時代感覚はなくなってしまったが、日本的な世紀感覚を表現するものとして、復活させてもよいのではないか。と、そんな他愛のないことを考えてもしまった。





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