折口信夫の和歌発生論

| コメント(0)
折口信夫は、「国文学の発生」においては、呪言を神の言葉とし、それを迎える人間の言葉を寿言としたうえで、この両者を含めて神事の言葉として、そこから国文学が生まれてきたという捉え方をしていた。ところがそのやや以前に書いた「万葉集の解題」においては、神の言葉を寿言、人間側の言葉を呪言としており、表面上はまったく反対の捉え方をしていたわけだが、この両者を含めて神事の言葉とし、そこから国文学が生まれて来たとする立場は異なっていないようである。

その国文学は当初は律文の形をとっていた。それには色々な理由があるが、最も決定的な理由は、文字のない社会にあっては、人々の記憶に語り継がれるためには律文であることが必要だったというものである。散文が登場するのは、文字が使われるようになってからである。

国文学の最初の形としての律文は、物語の地の部分と、そこにさしはさまれる抒情的な部分とからなっていたが、その抒情的な部分が次第に和歌という形で独立してきた、というのが折口の基本的な捉え方である。折口によれば、この和歌も又ある程度の変遷をたどったのだが、その変遷のおおまかな歩みは、万葉集を読むことによって知られるという。

和歌のもっとも古い形は、折口が大歌と呼ぶものである。大歌というのは、長い律文としての叙事詩のなかから、人々の興味を惹く部分を独立させて歌ったもので、抒情的な要素が込められている。この大歌が世間の好評を博し、人々からいっそう求められるようになると。もっぱら大歌ばかりを歌う大歌謡いというものが現れて来る。そしてこの大歌謡いが宮殿の祭事にも行われるようになると、大歌としての一層独自の発展をとげるようにもなり、そこから多彩な和歌の表現なども生まれて来る。

よく言われるように、恋愛が和歌の主要な材料だったとはいえない。恋愛が和歌の主要な材料になるのは、ずっと後のことで、最初の頃の和歌つまり大歌は、英雄の事績とかその死について歌うものが多かったことは、万葉集の古い歌からも察せられる。とりわけ英雄の死を歌う挽歌は、和歌にとっての重要な部分を占めた。その和歌は、おそらく第三者たる語り部によって歌われた。柿本人麻呂も又そうした語り部の一人だったのだろうと折口は推測している。そのことは、彼の歌に挽歌が多いことからも推測される。

いずれにせよ、この大歌から短い歌の形が生まれ、そこから短歌が成立してくるというのが折口の見方である。短い歌形のなかで旋頭歌だけは違う道筋をとっているようで、それは大歌の圧縮というよりは、神と人間とのやりとりを歌った掛け合いの歌から始まったのだろう。かけあいの歌とは、神が語り掛け、それに人が答えるというもので、これが旋頭歌に発展した。歌垣というのも、この神と人とのかけあいに起源を有しているのであり、よくいわれるような、性の解放という要素は付随的なものに過ぎない。

和歌発展の歴史における柿本人麻呂の意義は巨大である。かれは職業的な語り部として儀式的な歌を歌っていたそれまでの和歌の段階から、歌人の個人的な思いを抒情的に歌うように変わったその変わり目にいる。かれが登場したことによって、和歌は宮廷の儀式を始めとした公的な出来事をことほいだり悲しんだりする段階から、歌人の人間的な感情を歌う個人的な色彩のものへと大きく転換したのである。

人麻呂を含めて、歌人たちの歌い方にはある特徴があった。それは自分の感情をあえてコントロールしないで、感情が湧き出て来るままに放縦に歌い上げるというものである。だから歌人が歌い出したその瞬間には、その歌がとのような形に納まるか、当の歌人にも見えていない。かれはまず最初の言葉を発する。そしてその言葉の力に導かれるように次の言葉を継いでゆく。いわば成り行き任せで歌っているわけであり、これを言い換えれば、考えてから書くのではなく、書きながら考えるということになる。そのことを折口は「でたらめに」書くといっているが、別にでたらめなわけではなく、感情のある種のコントロール方式といってもよい。

書きながら考え、考えながら書くというスタイルは、日本の文学者にはいまでも根強く見られる傾向で、たとえば村上春樹なども、自分は書きながら考えるタイプなので、小説の進行はその時の勢いに左右され、それが最終的にどのようなものになるのか、書き終わるまではわからないと言っている。

こうした執筆態度は文学者にとどまらず日本の色々な分野の物書きに強く見られるものである。その典型は南方熊楠であって、その文章は書き進むに従ってあらゆる方向へと脱線してゆく。これは文章の進行を、その場の雰囲気でなりゆきまかせにしていることからくるもので、そういう点では、柿本人麻呂の謡い方と非常に似ているのである。そういう意味で柿本人麻呂は、和歌の歴史にとってはもちろん、日本人の思考の進め方にとっても重要な意義を有している存在だと言える。人麻呂は日本的な思考を、すでに古代において、典型的に示していたのである。

もっともこの最後の部分は、折口信夫本人が主張したことではない。






コメントする

アーカイブ