樹木の魂・鯨の魂:大江健三郎「洪水はわが魂に及び」

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「洪水はわが魂に及び」には、アナーキストの夢を描くという面とならんで、核時代の想像力に訴えるという面がある。小説の舞台となるのは核シェルターなのであるし、そこを舞台にアナーキストの夢を膨らませる「自由航海団」の少年たちは、核で地球の大部分が滅んだあとでも、自分たちだけは自らを亡ぼした人間たちの愚かさから逃れて、自由に海をかけめぐることを夢見ている。その少年たちに一体化した主人公の大木勇魚が、白痴の息子じんと核シェルターに隠遁したのは、いつか人類が核の為に亡びた時に、息子が発する「世界の終わりですよ」という言葉を聞きながら、人類の愚かしさに思いをいたすためでもあった。

主人公のその大木勇魚という名前は、かれが自分自身につけた名前だった。この名前を名乗ることによって、かれは樹木と鯨の代理人であることを自認したのだったが、ではなぜ樹木と鯨の代理人なのか。彼の考えによれば、人間は自然に対して暴力を働き続けて来た。その暴力の最たるものが核兵器だ。人間は核兵器によって自然を破壊するだけではなく、自分自身を滅ぼすだろう。人間が滅びるのは自業自得のこととして受け流すほかはないが、しかし人間の愚かな行為によって自然が損なわれるのは心が痛む。その損なわれる自然を代表するのが、主人公にとっては樹木と鯨なのである。小説を通じて主人公の大木勇魚は、つねに樹木の魂と鯨の魂に向かって語りかける。その言葉は、人間の愚かさについて樹木と鯨の魂に謝罪しながら、自分の行為が樹木や鯨にとって受け入れられるものなのかどうか、確認する意味をもっているのである。

主人公の大木勇魚と「自由航海団」の少年たちを結びつけたのは、この人間の愚かさについての自覚と、人間ではなくて樹木と鯨の立場にたつという決意だった。少年たちは、大木勇魚がいざというときに人間よりも自然の立場に立つこと、それは彼らにしてみれば権力ではなく彼らの立場にたつことを意味したのだが、そうした決意を大木勇魚という人間のうちに感じ取って、互いに連帯することを決意したのである。その連帯を象徴する言葉として、「自由航海団」のリーダー喬木は「鯨の木」の隠喩について語るのである。

そんなわけでこの小説は、いたるところ樹木の魂、鯨の魂に向けて語りかけられる主人公の言葉で溢れている。それに対して樹木の魂・鯨の魂が言葉によって答えることはしない。樹木は人間の言葉とは無縁だし、鯨も又人間の言葉を共有するとは思えない。鯨は時たま鯨特有の言葉によって人間に何かを伝えようとするだけだ。その言葉は鯨特有のもので、
  ウィン、ウィン、ウィン、ブオオオッ、ブオオオッ、ウィン、ウィン
といったものだ。この鯨言葉は、前作の「月の男」のなかの鯨も発していたものだ。

主人公の大木勇魚が樹木の魂・鯨の魂に語りかけつつ瞑想する主題は二つあった。ひとつは死であり、もう一つは「自由航海団」とともに人間たちの世界から脱落して自由に海洋を漂うという夢想だった。死は暴力と深く結びついていた。人間同士の愛にもその暴力は忍び込んでいたが、もっとも深刻なレベルでは核の暴力と結びついていた。核が人間を根絶やしにしてしまうのは明らかだが、人間以外の地球の生き物はどうなってしまうのか。人間とともに滅びるのか、それともずっと生き続けて、人間のいない世界があらたに生まれて来るのか。そんなことを大木勇魚は瞑想しながら樹木の魂と鯨の魂に語りかけるのだ。それに対して樹木の魂と鯨の魂が、人間の言葉で答えることはない。それらはいつも静かにそこに存在している。というのも、人間に魂があるように、またその魂がこの世に滞留しているように、樹木や鯨にも魂はあり、それらの魂は現にそこに滞在していると勇魚は感じているのである。

しかし大木勇魚が樹木の魂・鯨の魂と精神的なものにせよ双方向的な語り合いをすることはない。そこで大木勇魚は自分を樹木の代理人・鯨の代理人として、自分自身の責任において、樹木と鯨の利益のために行動するように決意する。その決意のうちでもっとも決定的な決意は、機動隊に追い込まれて絶対絶望の状況に陥った中で、そこからの脱出という選択を拒んで、籠城し続けることを選んだということだ。それは死を意味する。しかし勇魚は死を恐れない。死は、これまで樹木の魂・鯨の魂に語りかけながら瞑想してきた馴染のあるテーマだし、今となっては、単に自分の死を瞑想するだけではなく、樹木と鯨の代理人として死ぬことによって、人間の世界に向かって樹木と鯨の存在理由を主張することができると考えるからだ。

だが大木勇魚は死ぬ間際になって、自分が樹木と鯨の代理人たる資格にふさわしくないと感じる。核シェルターの近くに生えていたサトザクラの木が機動隊の攻撃によって焼け焦げているさまを見ると、この攻撃を行った人間とは自分を含めた人類なのであり、その人類の一員たる自分には樹木の代理人たる資格はないと感じるのだ。焼け焦げたサトザクラにとっては、自分もまた人類の一員なのであって、その意味では樹木の敵に属しているというつらい認識にたどりついたのだ。

こんなわけでこの小説は救いのないままに結末を迎える。その結末とは、「あらゆる人間をついにおとずれるものが」勇魚の身にも訪れるという暗示で表現されている。つまり大木勇魚の死は、ついに何の意味も帯びることなく、かれに訪れたわけなのである。

結末の部分はまた、核シェルターの無意味さについても言及している。この核シェルターは構造的に外界から謝罪されていなかったばかりか、したがって外界の影響力、それは核爆発の影響ということだが、その影響から無縁であることができなかったばかりでない。核爆発の物理的な脅威をとりあえずは克服できたにしても、そのなかに自分自身を閉じ込めた人間は、いつまでも外部との接触を絶ってはいられない。遅かれ早かれかれは、外界との接触を遮断する堅牢な扉を開いて外界がどうなっているのを確かめられずにはいられないのだ。何故なら、人間とは弱い存在なのであり、自分一人だけでは生きてはいけないからだ。この小説の結末は、そんなシニカルなあきらめで閉じられているようなのである。






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