狩野派の障屏画

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狩野派は、室町時代の末期に出た狩野元信(1476-1559)に始まり、永徳(1543-1590)によって画壇の主流の地位を確固としたものとし、探幽(1602-1674)が徳川政権の御用画師としての地位を獲得し、以後徳川時代を通じて、画壇を支配した。いわば日本におけるアカデミーを主催したようなものである。

狩野派は数多くの画師を輩出したが、その画風にはある程度の特徴が窺える。権力と結びつき、城郭や豪邸の室内装飾を期待されたということもあり、装飾的で派手な感じの絵が多い。その派手さは、金をふんだんに使ったところにもあらわれている。狩野派の傑作といえば、永徳の有名な唐獅子図がまず思い浮かぶが、その絵には、金地を背景とした豪華絢爛な画風が指摘される。

永徳の唐獅子図に代表されるように、狩野派は障屏画というものを得意とした。障屏画とは、襖や屏風に描いたものをさし、日本では長い伝統をもっていたが、室町時代の末期から徳川時代にかけては、書院造建築の普及とあいまって、大きな規模で普及した。それらの絵は、室内装飾を期待されていたので、上述したように装飾的で派手な絵柄が好まれる一方で、水墨で描いた味わい深いものも多く作られた。

障子や屏風はもともと生活のための必需品として開発されたわけだが、そこに装飾を目的とした図柄を描いたことは、日本の美術の大きな特徴だと考えられる。西洋には、大規模建築物内部の壁画とか一般人の室内の壁を飾る壁紙などの伝統を指摘することができるが、日本の場合には、日本建築の特性に合わせて、襖絵とか屏風画が普及したわけである。

狩野派の系譜を大雑把に整理すると、血族と弟子筋とに大別される。血族には、正信以降本家筋が連綿と続いたほか、傍流からもすぐれた絵師があらわれた。本流は、正信、元信、松栄、永徳、光信と続き、永徳の次男孝信から探幽、探信と続く分家筋が優れた絵師を生んだ。本流を中橋狩野、孝信以下の分家を鍛冶橋狩野と呼ぶ。そのほかに、駿河台狩野とか木挽町狩野とかいった家筋が分立し、互に助け合いながら、狩野派を全体として盛り上げていった。

一方、弟子筋の中では、永徳の弟子山楽とその弟子山雪が重要な働きをした。山楽は京都を中心に活躍したので、京狩野と呼ばれている。狩野派の主流は、幕府のおひざ元である江戸で活躍していた。

狩野派は勢力こそ圧倒的だったが、日本画が狩野派だけだったわけではなく、長谷川派とか海北派なども存在した。だが、やはり画壇の中心は狩野派であって、長谷川派などはその狩野派を強く意識しながら、装飾的な図柄を制作した。






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