11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち:若松孝二

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若松孝二は「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を、自分の映画作りの総決算だという趣旨のことをいったそうだが、それから四年後に「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」を作った。前作が日本の左翼をとりあげて、その異様な思想と行動を描いたものとすれば、後作は、左翼の対局としての右翼の異様な思想と行動を描いたものだ。若松は左翼だけでは片手落ちで、それとバランスをとるつもりで、この作品を作ったのだろう。

副題にあるとおり、三島由紀夫のいわゆる切腹事件がテーマである。切腹事件がおきたのは1970年11月25日のことで、浅間山荘事件より早かったわけだが、三島は浅間山荘事件に集約されてゆくような日本の左翼への反感から、自分の右翼的言動を合理化し、その挙句に自衛隊に日本の政権を奪取するよう、クーデターを呼びかけて、劇的な切腹を自ら身をもって演出した。当時三島のこの行為は大きな反響を呼び、その行為をたたえるものやら、逆に嫌悪感を示すものやら、いろいろであったものだが、若松がこれを取り上げて映画化したのは2012年のことで、事件からは40年以上がたっていた。しかがって、事件から身を引いた視点から、これを再構成しているところがある。

連合赤軍への若松の視点は、基本的には頭のいかれた連中がわけのわからない行動に走り、その結果自爆するようにして破滅していったというものだが、切腹事件を見る目も似たようなものといえる。この映画を見る限り、三島の思想に何らかの合理性があるとは思えないし、ましてやその行動は、児戯に等しいというふうに伝わって来る。すくなくともこの映画を見て、三島に感情移入したり、その思想を評価するようなものはいないだろう。ほとんどの観客は、頭のいかれた連中がわけのわからぬ行動を起こしたというふうに受け取るのではないか。三島について予備知識のないものは、そんな反応だろうと思う。

この事件が起きたとき、どういうわけか小生はあまり関心がなく、テレビ報道などもほとんど見なかったが、その後大江健三郎の小説を読んで、三島の首が斬り下ろされた拍子で自衛隊総裁室の床の上に直立したというふうに吹き込まれたりしたが、この映画の中では、三島の首が斬り落とされるその場面は生々しく映されていない。ましてや三島の首が床の上に直立する場面など出てこない。ほかの資料にあたったところ、三島の首は床に転がっていたところを、やはり床の上に転がっていた森田必勝の首ともども、床の上に並べ置かれたということだ。その場面をテレビ報道が映したのかどうか、小生にはわからぬが、大江の小説では、障害のある息子が、床に直立した三島の首を、テレビ映像を通じて見たということになっている。

それはともかく、この映画は三島が血気盛んな若者を糾合して盾の会という組織を作り、自衛隊で訓練しながら、いざという日に備えるところを淡々と描いている。前作とは違って、仲間割れとか、ましてやリンチ殺人といった場面は出てこないので、あまり陰惨な印象は受けないが、そのかわりにやたらと精神論が出て来る。また、三島の日本刀へのこだわりも強調される。三島が日本刀に拘ったのは、日本刀こそ武士道精神の花であって、その日本刀を用いてクーデターをするつもりでいたからだった。クーデターの目的は、日本に軍事政権を誕生させ、軟弱な政治を廃して、天皇中心の武士道国家をつくることであった。なぜ天皇崇拝が武士道精神と結びつくのか、映画からは無論明らかにはならない。そのため三島は、空疎な議論を弄んで、バカげた行為に走ったというふうに伝わって来る。

三島を演じた俳優(井浦新)は、三島の実際のイメージとはかなり違う雰囲気を感じさせる。この映画のなかの三島は、どちらかといえばナイーブな男として描かれているが、実際の三島にはずぶといところがあったはずだ。ずぶといというのは、他人に対して居丈高に振る舞うことを含めて、自分を偉そうに見せようとするところだ。ところが井浦演じる三島には、そういうところはない。かえって周囲の意見にまどわされるような、軟弱な人間として描かれている。これは俳優の身体的な特徴であるからなんともいえないところだが、立ち居振る舞いに女性的なところが感じられ、声もまた穏やかで繊細に聞こえてくる。実際の三島の声は、いかにも男の声といったのぶとさがあった。また、実際の三島は、160センチそこそこの身長で、小男といってよかったが、井浦はほかの人間より身長が高く、大男を感じさせる。その点もミスマッチだ。





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