源氏物語 千年の謎:鶴橋康夫

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鶴橋康夫の2011年の映画「源氏物語 千年の謎」は、副題に「千年の謎」とあるが、何が謎なのか映画の画面からは伝わってこない。一体この作品は、「源氏物語」をテーマにしていながら、源氏の恋の遍歴を描くよりも、作者の紫式部のほうに焦点を当てているのではないか。紫式部の生きざまを描きながら、そこに彼女の物語である「源氏物語」のシーンを同時並行的に差し挟む。だからこれは「紫式部物語 千年の謎」と題したほうがよかったようだ。それなら、謎の意味も分かる。紫式部の生涯はそんなに詳しく明らかになっているわけではなく、ましてやこの映画が前提しているような道真と式部との男女関係があったということもたしかではない。その確かでないことをこの映画は、謎というかたちで取り上げた、ということならなんとか納得できる。

紫式部の生き方と源氏の恋物語を同時並行的に描くと言ったが、その同時並行性は、現実と虚構とのもつれあいという形にまで発展する。というのも、現実の世界の住人が物語の世界に入り込んで、物語の進行に多大な影響を与えているのだ。たとえば安倍清明が、葵の上のお産のシーンに介入して、六畳御息所の呪いの邪魔をするといった具合だ。実際には、源氏物語のなかには安倍清明などは出てこない。そんな人物をわざわざ源氏物語をうたった映画に登場させたのはどういうつもりか。今般は安倍清明人気が高まっているようなので、それに便乗したのか。

その安倍清明が、道長に向かって、紫式部に気をつけろと忠告する。この女は災いをもたらす相があると言うのだ。何を根拠にそんなことを言うのか、映画は明らかにしない。ただ、そう言われた道長が、紫式部への愛着を捨てきれない。それは道長が式部を深く愛しているからだというようなことになっている。

その式部も自分の物語の登場人物と出会うことがある。とりわけラストシーンに近いところでは、光源氏と橋の上ですれ違う。すれ違っただけで何事も起らないのだが、これは折角作者が自分のヒーローと出会ったのだから、サービス不足の演出ではないのか。

光源氏の女性遍歴については、いささかセクシュアリティに欠ける。源氏はどんな女をもたぶらかす色好みだったわけだから、その好色ぶりをもっとどぎつく演出するのでなければ、現代の観客には受け入れられないだろう。それに比べれば、六条御息所の描き方はなかなかだ。彼女は原作では葵の上に呪いをかけたということになっているが、そのほかにも夕顔を縊り殺したというような演出をしている。だが御息所がそんなことをするのは、嫉妬に駆られてのことで、彼女に嫉妬させた源氏や相手方の女たちも悪いと、映画は思わせようとしている。その点でこの映画は、六条御息所に新しい光を当てた作品だということが出来よう。

藤壺との関係は源氏物語全編の最大の読ませどころだが、この部分については、映画はかなりあけすけに描いている。藤壺が源氏に身を任せたのは、長らく一人寝を重ねたことによる欲求不満からだという解釈を施しているのである。その結果男子が生まれ、その子が宇治十帖の主人公に成長するわけだが、映画はそこまでは言及しない。





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続壺齋閑話の散人殿
源氏物語 千年の謎:鶴橋康夫の
http://blog2.hix05.com/2019/03/post-4319.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=twitter
本編末尾の「宇治十畳」は誤字、宇治十帖」です。気になったので。
盛岡市  石川朗。

石川 さま

ご指摘ありがとうございます
訂正しておきました

壺齋散人 謹白

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