大江健三郎の少年時代:懐かしい年への手紙

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「懐かしい年への手紙」には、大江自身の少年時代の回想がつづられているわけだが、その回想は、大江自身の言葉で語られる一方、ギー兄さんの言葉を通じても語られる。大江自身の言葉として印象的なのは、「数えで五つの時に、ああ、もう生きる年の全体から、五年も減ってしまった、と嘆きの心をいだいた」というふうな、へんにませた子どもとしての印象をもたせるものがあるのだが、その印象はギー兄さんの次のような言葉で打ち消される。十歳になったKちゃん(大江のこと)が、初めてギー兄さんの屋敷の土間に立った時に、ギー兄さんの受けた印象は、「なんという子供っぽい子供だろう、ということだった」のである。

その子どもっぽさは、かなり年が進んでも変わらない大江の印象で、かれは高校時代にはNAIF(ナイーフ)というあだ名をつけられたのだが、ナイーフとはフランス語で、子供っぽいという意味も含んでいる言葉だ。たしかに彼は、18歳になるまで、マスターベーションの仕方も知らず、したがって射精をしたこともなかったと「告白」している。これをどこまで信用していいのかわからぬが、そして実際そんなことがあるとは思えないのだが、もし本当なら、大江は性意識の目覚めをかなり遅れて体験したということになる。

その体験というのがふるっている。大江は、成熟した女性からマスターベーションの仕方を教授されたばかりか、初めての性交にも導かれたのである。その指南役をつとめたのは、セイさんという女性で、もともとはギー兄さんの父親の妾であったのが、いまは子連れでギー兄さんの家に寄寓しているのであった。セイさんは、ギー兄さんとも性交する間柄なのだが、性については開放的で、まだ少年の大江を相手に、性の手ほどきをしてくれるのだ。そんな少年の大江を、ギー兄さんは複雑な目で視ている。その複雑な気持ちをギー兄さんは次のようにいうのだ。「Kちゃんよ、きみはまだ子供の頃、自分と性関係のある女性に対して、友達であるきみにも権利があるという具合に、平気で関係をもったことがあった。だからといって自分がオユーさんになんらの権利を主張するのじゃない」

オユーさんというのは、Kちゃんつまり大江の妻のことである。この小説のなかでは、大江の妻はオユーさんという名前で登場し、かなり積極的な役割を果たしている。彼女の外にも、この小説では女性たちが生き生きとした動きを見せる。先ほどふれたセイさん、その娘のおせっちゃん、語り手の妹アサ、かれらの母親といった具合である。そのほかにも、ギー兄さんの周辺にさまざまな女性たちが登場し、それぞれユニークな動きを見せてくれる。それはともかく、この小説は大江にとっての自伝的な作品ということになっているが、そこに描かれた語り手(=大江)の家族関係は、結構フィクショナルな変形を受けている。

現実の大江の家族関係は、両親とその七人の子供たちからなっており、大江は子どもたちの中では五番目の子だった。上に二人の兄と二人の姉がおり、下に妹と弟が一人づついた。だがこの小説の中では、Kちゃんには母親と一人の妹がおり、父親はKちゃんが子供の頃に死んだことになっている。父親が子供の頃に死んだというのは、実際のことであるが、二人兄妹というのはフィクションである。大江は自分の同胞たちとのかかわりを、自分と妹との関係に集約しているわけだ。このスタンスは大江の気に入ったものらしく、ほかの小説の中でも、語り手とその妹というかたちで繰り返されている。

この小説では、語り手の妻であるオユーさんが、語り手の松山東高校時代の同級生の妹ということになっているが、これは、大江の妻のゆかりが、大江の高校時代の同級生だった伊丹十三の妹だった事実に対応する。その友人は秋山という名前で登場し、大江とのユニークな関係を築いたことになっているが、この秋山についての語り手の語り方はやや入り組んだ印象を与える。

語り手(=大江)は、最初に入学した内子高校、これはもともと女学校だったものを新制高校に編成替えしたものだったが、進学校ではなく、不良な生徒によるいじめもあった。そんなわけで語り手は二年生を迎えるのを契機にして、進学校である松山東高校に転向するのだが、それは大江自身に不良の傾向があって、それを見とがめた教師たちが、ていよく大江を追っ払うために、転向を進めたというふうに描かれている。

大江は、松山東高校に転向してからも、周囲から変わった生徒として見られた。その大江の変わったところを、伊丹十三に注目されて、二人の付き合いが始まったというふうに、この小説では描かれている。伊丹は大江以上に変わった男で、大江に対しては金を無心する以外に、たいした存在感は示さなかったばかりか、大江が自分の妹と結婚したいといったときには、一人強硬に反対した。その理由というのが、大江が自分自身のセックスアドヴェンチャーを伊丹に吹聴していたことにあったというのである。そんな男に大事な妹をやるわけにはいかないというわけであろう。

実際大江は、作家としてもセックスにこだわり続けているので、根っからの性的人間と受け取られても仕方ないところがある。といって、セックスにだらしがないというのでもないのだろうが。ともあれ、この小説の中の語り手の性的嗜好は、18歳のときにセイさんから手ほどきを受けたときの体験に根差しているということになっている。それを語り手は、次のように表現するのだ。「のちに僕が小説を発表しはじめてから、淡い陰毛と豊かな尻がこの作家の性的な基本イメージをなすという批評を読んで、なんとも懐かしく蔵屋敷での出来事を思い出したのである。人間の性的なコンプレックスとはそのようにも{naif}なものかと、不審な思いもしたのだったが・・・」

この「蔵屋敷での出来事」とは、セイさんからセックスの手ほどきを受けたことをさす。そのさいの語り手の体験は、じつにアッケラカンとしたものである。そのアッケラカンとした明朗さが、大江のセックスについての、ある種天真爛漫な表現をなさしめる原動力になっているようである。大江程セックスにこだわりながら、それについて淡白さを感じさせる作家というのは、村上春樹をのぞいては、いないといってよいのではないか。






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