根拠について

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根拠の問題は因果的な思考につきものだ。根拠についての問いは、ある事柄がなぜそうであるのかについて問うことだが、その何故とは、結果についてその原因を問うことと同義だからだ。それゆえ因果的思考を追求した西洋哲学にあっては、根拠の問題は中核的な問題だったのだ。因果関係についての問いは、論理的な問いとして論理学の問題となる。したがって根拠律は論理学の重大な要素となる。論理学上の問題としての根拠をめぐる議論は、一つの法則として結実し、根拠律という概念を生み出すのである。

根拠律について、明確な定義を行ったのはライプニッツである。ライプニッツの根拠律についての定義は次のようなものである。「なにものも根拠なくしては存在しない」。これを言い換えれば、「なにものの存在にもその根拠がある」ということになる。これを更に言い換えれば、あるものの存在には、結果としての存在についての原因があるということになる。つまり、根拠律は因果関係を論理的なタームで表現しているわけである。因果関係は、同定や否定、選言や連言と並んで現代論理学の中核的な概念であるから、ライプニッツの根拠律は、現代でも十分通用する概念だということになる。

ライプニッツの根拠律の概念には、論理学の基礎づけという目的と並んで、もう一つ大きな目的が隠されている。神の存在を弁証するという目的だ。「なにものも根拠なくしては存在しない」のであれば、すべての事柄に根拠があるということになるが、根拠となる事柄は更にその根拠を求めるといった具合に、根拠を求めて無限に遡るということになる。根拠律はだから無限退却というリスクを伴っているわけだ。この無限退却をめぐって、人間はある種の選択をせまられる。無限に退却していった挙句に、その先に何を設定するかという選択だ。無限に退却させるばかりで、その先に何も設定しないという選択はありうる。無限という概念そのものが、それを制限するような設定を拒むからだ。もう一つは、神によって、この無限退却と見えたものを閉じることだ。つまり、終局的な根拠として神を持ち出すことで、すべてのものの存在を神によって根拠づけるのである。

ライプニッツの本当の意図は、後者にあったものと思われる。我々が生きているこの世界は、その存在の根拠を神に負っている。そう考えなければ、この世界の存在は無根拠ということになり、論理的に矛盾するばかりか、事実としても破綻する。何故なら、論理的には根拠のない存在はありえないからであり、事実的には、根拠を欠いた存在は質量を伴なわない形相のようなものだからだ。つまり、現実性に欠けるのである。そういうわけでライプニッツは、論理学上の根拠律を武器に使って神の存在証明に代えようとしたわけである。これは弁神論の一種であるが、デカルトの弁神論よりスマートに見えて、じつはそうともいえないところがある。デカルトの弁神論は、神の観念には完全無欠という属性が含まれていることを理由にして、完全無欠には存在するということも含まれていると言って、神の存在を証明しようとしたものだが、存在するということは属性とは異なった意味合いのものだから、属性である完全無欠を理由に神の存在を証明することは、カテゴリーミステークに陥った誤りであると指摘されたものだ。ライプニッツの根拠律は、それより厳密なところはあるが、やはり論理と存在とをごっちゃにしたものだとの批判は免れない。ライプニッツは、論理と存在とは一致するというふうに考えていたわけで、かれの弁神論はその考えの帰結のようなものなのだが、その考えがすべての場合にあてはまるという保証がなければ、かれの弁神論は成り立たないわけだ。もっとも、これは論理と存在の関係についての、膨大な論争を背景にした問題だから、そう簡単には言えないところがある。

根拠についてのライプニッツの問題意識を受け継ぎながら、存在の究極的な根拠を、ライプニッツのように神に求めるのではなく、別のところに求めたのがハイデガーである。ハイデガーの根拠についての議論は、「形而上学入門」とほぼ同じ頃に書かれた「根拠の本質について」という論文の中で展開されている。その議論は非常に錯綜していてわかりづらいのであるが、誤解を恐れずに簡単にいうと、存在の究極的な根拠を人間に求めたと言える。これは、神に求めるよりも、現代的なアプローチだと言えなくもないが、現代的ということが、正しいということを意味するわけではないので、ハイデガーの議論の内実は、慎重に見極める必要があろう。

ハイデガーは、ライプニッツの根拠律についての定義を次の三つの小定義に分割する。すなわち、「何故に他のものより寧ろこのものが存在するかの根拠がある、何故に別様より寧ろこの様に存在するのかの根拠がある、何故に無よりは寧ろ或るものが存在するかの根拠がある」というものだ。一番目は、そもそもあるものが存在することの根拠について、二番目は、あるものがそのようなあり方で存在していることの根拠について、三番目は、なぜ無ではなく存在があるのか、その根拠について、それぞれ述べたものである。これらはそれぞれが重い問題を内在しているが、最も根本的なのは、何故無ではなく存在があるのかという問いだろう。これは、何故人間はこの世界に存在しているのかという問いにつながる。それは人間の存在の根拠についての問いであるから、哲学としては最優先に取り掛からねばならない問題である。

ライプニッツであれば、人間の存在の根拠は神だと言って、簡単に終わらせるところだろう。聖書にもそう書いてあるし、我々人間の生活実感にも合致している。我々は、というのはライプニッツにあってはキリスト教徒という意味だが、そのキリスト教徒は誰でも、人間を含めたこの世界全体を、神が無から作り出したと信じている。神は無からさえ超越したものであるのだから、すべての存在を根拠づけるにふさわしいお方なのだ。

しかしハイデガーは、神なき時代の哲学者として、ライプニッツのように簡単に割り切ることはしない。とはいえハイデガーは、ライプニッツの問題意識を受け継いだ形で、根拠の問題を存在と関連付けて論じてはいる。純粋に論理の問題とは見ていないわけだ。ハイデガーにとっても、根拠の問題は存在についての問題なのだ。その存在の、存在そのものの根拠、存在の仕方についての根拠、何故存在しないのではなく存在するのかについての根拠、それらについての問いが、ハイデガーにおいても、根拠についての問いを形成しているわけだ。その根拠をハイデガーは、現存在としての人間の企投に求めた。この概念を詳しく説明するには、多くのページを要するので、ここでは深入りしないが、要するにこの世界は、現存在としての人間にその存在根拠を有しているというのがハイデガーの基本的なスタンスである。ハイデガーにおいては、現存在としての人間は世界形成的な役割を果たしている。その役割は、必ずしも神と同等のものではないが、しかし世界形成の主体とされた限りでは、人間に神のアナロジーを見たようなところはある。そこからハイデガーは、神を廃してその座に人間を据えたと言われるわけである。

ライプニッツにせよ、ハイデガーにせよ、根拠を存在の問題として捉えるかぎりは、その根拠をなにものかに求めねば終わらないであろう。ライプニッツの場合にはそれが神であったわけだし、ハイデガーの場合には世界形成者としての人間であったわけだ。だが、論点をずらすとまた違った展開になるにちがいない。根拠の問題を存在の問題としてではなく、純粋に論理の問題として捉えれば、存在の根拠への問いは、必ずしも必須の問題としてせまってくるわけではない。





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