吉川幸次郎の荻生徂徠伝

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吉川幸次郎といえば中国文学者として一時はその世界をリードした碩学だが、その吉川が荻生徂徠伝を書いている。岩波版日本思想体系の荻生徂徠の巻に解説の形で乗せた文章「徂徠学案」である。解説とはいえ、原稿用紙にして270枚の分量にのぼり、ちょっとした徂徠論にもなっている。

この文章は、荻生徂徠についての簡単な伝記と、徂徠学説の要約からなる。まず伝記的部分。吉川は徂徠の生涯を三つの部分に大別している。第一は四十歳頃までの時期で、当時学問の主流であった宋学の影響を強く受けた。第二は四十歳以降五十歳までの時期で、明の李攀龍・王世貞の影響を強く受け、宋学を捨てていわゆる古文辞学に向かった。しかしこの時期は文学が中心で、思想の面ではまだ宋学の影響を脱しきれなかった。第三が五十歳以降死ぬまでで、思想を含め全面的に宋学の影響を脱し、徂徠自前の古儀学を全面的に展開した。この五十歳という年には特別の意義があると吉川は言う。孔子は五十にして天命を知ると言ったが、それは人間五十歳で自分の分をさとるということであって、その孔子の言葉を徂徠は肝に銘じて、五十歳を期に自分の思想を画定したというのである。

荻生徂徠は医者の子として生まれた。父親は五代将軍綱吉の侍医であった。その父親が罪を得て上総の国に流されたのは徂徠十四歳のとき。以来徂徠が二十七歳の年に許されて江戸にもどるまでの間、徂徠は上総の田舎で育った。したがって徂徠は少年時代にまともな教育は受けていない。父親からの指導はあっただろうが、基本的には独学で勉強した。このことが徂徠にとっては大きな意味をもったらしい。独学であるから、徂徠にとっては既成の学問的権威はあまり問題にならなかった。自分自身の頭で学問の本来のあり方を判断したのである。そのことが、当時学問の主流であった宋学に縛られることなく、自由な立場から学問をするという姿勢を徂徠に植えつけたのであろう。

荻生徂徠の中国贔屓は大変なもので、世界で中国だけが聖人を輩出したと本気で信じていたほか、中国語を外国語として、外国語の発音で読んだり話したりすべきであって、日本流に訓読をしていたのでは、文章の本義は理解できないといっていた。つまり徂徠は根っからの中国贔屓という域を脱して、自分も中国人になりたいと念ずるほど、中国文明に心酔していたのである。したがって徂徠にとっての学問は中国のそれであり、また生き方の手本も中国の文明のうちにあった。こういうと徂徠は日本人としての主体性を欠いたただの外国かぶれのようにも映るが、たしかにそういう面はある。しかしそれは徂徠に限ったことではない。徂徠の同時代の日本人はみな中国にかぶれていたわけであるし、また近代以降現在に至るまで、日本人の学者と言われる連中はみな、外国の学問を同胞の日本人に紹介することを以て、自分の任務と心得ている。徂徠の時代には中国であった外国の手本が、いまでは西洋にとってかわったという差しかない。

荻生徂徠のほぼ同時代人に新井白石がいるが、徂徠はこの白石に異様といってよい敵愾心を抱いていた。白石は吉宗が八代将軍になるとすぐに追放されるが、それについては徂徠も関わっていたらしい。徂徠が白石を憎んだ理由は、家宣に影響力を行使して綱吉時代の政治を転覆させたということにあった。徂徠は、父親が綱吉によって流罪に処せられたといういきがかりはあったものの、綱吉の晩年には許されて、再び側近として仕えるなど、綱吉に対しては恩義を感じていたらしい。その恩人たる綱吉に白石が無礼な仕打ちをしたというので、徂徠は白石を憎んだのであろう。その辺は、徂徠の人格の狭量さを感じさせるところだが、それは徂徠の出自が武士ではなく医師であったことにもとづくのかもしれない。武士である白石のほうは、徂徠の仕打ちにあまりこだわってはいない。

荻生徂徠の人格の狭量さを物語ることとして、伊藤仁斎への反感があげられる。徂徠は四十歳前後に伊藤仁斎に書を送って教えを乞うたことがあった。ところが仁斎から何の返事もないので、深く仁斎を怨み、以後仁斎の学問にケチをつけるようになった。しかし仁斎の学問は古儀を重んじるもので、その点では徂徠の立場とかわらない。したがって仁斎を責めることは、同じような立場に立つ自分にもはね返ってくるはずなのだが、徂徠には、学問上の共通性よりも、付き合い上の齟齬のほうが問題であったらしく、かなりネチネチと仁斎を攻撃している。その仁斎にしても、なにも意図的に徂徠を無視したわけではない。徂徠の手紙を受け取ったときには、すでに死にかかっていたのである。

こうした徂徠の人間的な狭隘さは、たびたび嘲笑の種になってきた。有名な話として吉川が紹介しているのは、死の床に臨んでの徂徠の言葉だ。徂徠は枕頭の人々に向って次のように言ったというのである。すなわち、「海内第一流の人なる物茂卿(徂徠自身のこと)、将に終らんとす。天も為に此の世界をして銀ならしむるなり」。後世の大方の学者たちは徂徠のこの言葉を引いて、「其の豪邁にして自ら負ふこと此の如し」と言って嘲笑したのである。徂徠の言葉にある「銀ならしむる」とは、折から降っていた雪のことをさす。徂徠は、天が自分の死を惜しんで雪を降らせたと豪語したわけである。

次いで徂徠の思想について。吉川が徂徠の思想を五十歳にして確立したと考えているのは先述のとおりである。その徂徠の思想を吉川は、大きく二つに集約する。ひとつは政治の道徳への優先であり、もうひとつは天の尊敬である。

政治の道徳への優先は、当時の宋学に対抗する考え方でもあった。当時の宋学は朱子のいう「性即理」を根拠にして、すべての存在は一つの理によって貫かれており、その理の人間への付与が性であるから、この「性即理」を明らかにすれば、自ずから道理がわかってくる。世の中というものは、この道理に従って動いているのであり、またそのように動かしていくべきものだと宋学は考えたのであったが、徂徠はそれを正面から否定する。余の中というものは、自然に動いて行くものではなく、聖人のつくった道にしたがって動いていくものだ。その道とはしたがって、宋学の考えるような天地自然のものではなく、人為的な作為になるものであり、政治的なものである。我々としてはこの政治的なものを、なによりも優先させるべきであって、その意味で政治の道徳への優先を認めるべきなのだ、ということになる。

聖人による作為という徂徠の考え方については、かつて丸山真男も日本思想史上に特筆すべきこととして強調していたが、吉川もそれと同じようなことを、「政治の道徳への優先」という言葉で表現したわけであろう。ただし、丸山の場合には、徂徠のそうしたスタンスを、かなり徂徠に寄り添った形で解明していたが、吉川は、中国文学者らしく、徂徠のそうした考えが、徂徠が依拠した「六経」などの原点とどれほど合致するかは別の問題だといって、徂徠の問題意識を相対化してもいる。

「天の尊敬」という言葉は、「政治の道徳への優先」と齟齬するようにもうつるが、よく考えてみれば、このふたつは連携しあっていると吉川は言う。たしかに、天といい、鬼神といい、祖先神といい、いづれもみな超自然の存在であるが、実は現実の複雑さに対処するためのキーワードのようなものなのだ。その現実の複雑さを大きな視点から解決しようとするのが政治であって、我々人間の生き方をめぐる複雑さに、人間に身近な小さな視点から対処しようというのが「天の尊敬」でいいあらわされるような視点なのだ、とそう吉川は徂徠の思想を説明してみせるのだが、読んでいるほうとしては、いささか消化不良になりそうなところである。やはり、徂徠の敬天思想は彼の宋学の尻尾みたいなものと考えたほうが、つじつまがあいそうである。

この「敬天」という言葉は、あの西郷隆盛も愛したものだが、西郷の場合には、陽明学の影響を指摘される。西郷がどこからこの言葉を得て来たのか、それ自体興味深いところだ。






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