語ることと語られたこと:レヴィナスの後期思想

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語ることと語られたこととの対立は、共時性と隔時性の対立とならんで、「存在の彼方へ」における主要な概念セットである。だが、共時性と隔時性の対立ほどには、語ることと語られたことの対立はわかりやすいとはいえない。というか、この両者が対立関係にあるとは、俄には思えないので、我々はレヴィナスが、これらを対立させることの理由がなかなかわからない。語ることの結果語られたことが生起するのではないのか。語ることと語られたたこととは、一つの事態の連続した様態であって、そもそも対立関係にはないのではないのか。そのような疑問が浮かんでくるのである。

以上は常識的な考え方だが、レヴィナスはそうは考えないようだ。たしかに、語ることと語られたこととは一連の行為を形成するものだが、<語ること>は、それが語られ終って<語られたこと>となるとき、それ独自の自立性を獲得する。<語られたこと>は大勢の人々の前に、社会的な意味作用を担った言説として、客観的な存在性を獲得するのだ。それに対して、<語ること>は、それが<語られたこと>の手前にある限り、社会に対してはまだ秘密を守っていられる。だから、<語ること>と<語られたこと>は、必ずしも全面的には一致しないのだ。両者の間には隙間がある。その隙間が、「存在するとは別の仕方で」にとっては、大きな意味を持つ、というのがレヴィナスの考えである。

<語ること>と<語られたこと>が一致する場合というのは、私が社会に向けて、これは私の意見としてあなた方に告知する意図をもって語っているのですよとあからさまに表明するような場合であろう。そのようなものとしての<語られたこと>は、社会的な存在と化す。私の<語ること>は、社会的で客観的な存在である<語られたこと>となって、そこには何の秘密もない。私の内面は外面と完全に一致するのだ。

しかし、そういうあり方は、「存在するとは別の仕方で」とは全く異なったあり方だ。少なくともそういうあり方では、私は他者と正当な形で向き合えない。私と他者との関係は、基本的には、「存在とは別の仕方で」の関係だからだ。ところが「語られたもの」は社会的な意味での存在そのものだ。「語られたことと化すや否や、存在は現出し、姿を現すということ。存在の手前に存する<語ること>が記述され、説話およびエクリチュールのうちで息絶えるとき、あるいは説話およびエクリチュールのうちで<語ること>が自己を放棄するとき、存在は現出し、姿を現す」のである。(「存在の彼方へ」合田正人訳、以下同じ)

こういう具合にレヴィナスは、<語ること>と<語られたこと>を分離したうえで、<語ること>の自立的な性格を強調する。レヴィナスにとって<語ること>は、私が他者との間で行うコミュニケーションのあり方であり、そのコミュニケーションのうちで私は、社会に向ってではなく、唯一者としての他者に向って語り掛けるのだ。その私が<語る>ことは、他者との間でだけの秘密であり、社会の眼を意識していない。

というより、私が<語ること>は私の他者に対する責任なのだ、とレヴィナスは言うのだ。私が<語ること>の内容をレヴィナスは、とりあえず「私はここにある」というメッセージだといっているが、そのメッセージは、他者からの呼び出しに対して誠実に応えることを意味している。だからそのメッセージは、私と他者との間で成立する秘密のようなものだ。この世界には、私とあなたしかいない、というわけである。

レヴィナスは言う、「他者に対する責任は、どんな<語られたこと>にも先立つ<語ること>にほかならない。他者に対する責任という驚くべき<語ること>は、存在という『障碍』に屈することがない。<語ること>は存在することの中断であり、善き暴力によって課せられる、内存在性の我執からの超脱である」。他者に向かって<語ること>が存在の中断だというのは、それが「存在するとは別の仕方で」なされるということを意味している。「存在するとは別の仕方で」他者に語りかけるというのは、なかなか思い浮かばないイメージだが、レヴィナスは存在することをある種の暴力のようにとらえているので、私と他者との関係には相応しくはなく、したがって私は「存在するとは別の仕方で」他者との関係を結ばねばならないと言っているわけである。<語ること>はそうした関係を支えるものなのである。

<語ること>はレヴィナスにとって、他人への暴露なのである。私を他人に向って全面的に暴露すること、それが<語ること>なのだ。そうした意味での<語ること>が社会的な存在性を帯びた<語られたこと>と一致しないのは、ある意味当然ということになる。ともあれ、存在の暴露としての<語ること>は、他人への私の受動的な応答なのであるから、そこから次のようなレヴィナスの言い方も出て来る。

「<語ること>の極度の受動性。その最後の避難所においてさえも、<語ること>は他人にさらされ、忌避しえない仕方で徴収される」

「<語ること>は証しであり、<語られたこと>なき<語ること>であり、<他者>に贈られる徴しである」

「<語ること>は、超越ないし<無限者>を、『存在するとは別の仕方で』を、存在するという内存在性からの超脱を謎として隔時的に意味するのだ」

つまり、他者からの呼びかけに対して受動的に応答すること、それが<語ること>の本質であり、私から他者へ向けての贈り物であり、その贈り物を媒介にして私は他者に向って超越するのだということになる。この場合、他者を神という言葉に置き換えるとわかりやすい。西洋の哲学的・神学的伝統においては、私と神との関係は常に超越という言葉で語られて来たから、私が神に向って超越するというイメージは、私と他者との間での超越のイメージを喚起しやすいのである。

ところでレヴィナスは、「語りえないものの秘密を漏洩すること、おそらくそれが哲学の使命にほかならない」とも言っている。これはウィトゲンシュタインとは全く異なった言い方だ。ウィトゲンシュタインは、語りえないものについては沈黙すべきだと言っていたが、レヴィナスはその反対に、語りえないことについて語ることこそ哲学の使命だと言っているわけである。レヴィナスがこう言えるわけは、彼が<語ること>と<語られたこと>とを、別の範疇の概念だとしたことに基づく。それに対してウィトゲンシュタインは、<語ること>と<語られたこと>との間に区別を設けない。どちらも人間の思考の表現なのだ。そうしたうえでウィトゲンシュタインは、人間の思考の限界を見極めながら、神のような本来語りえないものについて語るべきではないと言っているわけだが、レヴィナスは、神について<語ること>は当然のことだと思っているのである。だがその神についての語り方は、「存在するとは別の仕方で」なければならないと条件づけているわけである。

そうではなく、神についても、その存在を前提として<語ること>は、証明すべきものを前提とした証明のように空々しいものになる。レヴィナスは、「語られたことに組み込まれると、存在するとは別の仕方ではもはや、別の仕方で存在することしか意味することがない」と言って、そうした空々しい語り方を自粛するように呼び掛けてもいるわけだ。







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