今なぜ徴兵制を論じるのか

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中央公論最新号(2019年9月号)が、「新・軍事学」という特集を組んで、その一環として「今なぜ徴兵制を論じるのか」という座談会を掲載している。参加しているのは三人で、そのうちの一人(女性)が先日公刊した本をきっかけにして、今なぜ徴兵制を論じるべきなのかについて議論している。それを読んだ小生は、聊かの同意をすると同時にかなりの違和感を抱いた。

小生も徴兵制についての議論は、国民的な規模で実施するべきだと思う。しかしその議論は、いま安倍政権がごり押ししようとしている憲法改正の議論と一体となって行うべきだと考えている。憲法改正の議論と切り離して、徴兵制を議論するのは非常に危険だと思っているのだ。小生がそのように考えるわけは、憲法改正は安倍政権がいうような技術的な問題ではなく、国民に戦争への心構えを迫る問題だということだ。憲法を改正して、実質的に軍隊を持つことは、日本が戦争するようになることを意味している。だから、国民に戦争への心構えがないと問題にならない。その心構えとは、国民全体が国を守るために、一人残らず戦争に従事することを要請する。戦争はしたいが、実際に命をかけて戦うのは、俺ではなく彼らだ、では困るのだ。

そういう意味で小生は、安倍政権が目ざしているような憲法改正は、徴兵制とセットでなければ意味がないと考えている。憲法で軍隊を持つ、当然戦争もするようになる、そうなった場合には国民全体が一人残らず戦争に従事するように、徴兵制を実施する、というのは、きわめてスタンダードな考え方だ。この考え方は、憲法学者の井上達夫も表明している。井上は、徴兵制を併せてセットすることで、無責任な戦争への動きを抑止することができるという。だれもが戦争の当事者になるとわかっていれば、無責任に戦争を煽ることにはブレーキがかかるだろうという理屈だ。逆に徴兵制がなければ、戦争を企画する人間と、実際に戦争で命を落とす人間が別々になるので、戦争を企画する連中は、無責任になりやすい。それでは国を亡ぼすもとになる。だから、国民全体が戦争の当事者になるように、徴兵制を、軍隊保持と合わせて憲法上に規定する必要がある。

ところがこの座談会では、徴兵制の議論が独り歩きしている。しかも徴兵制についての、理念的な根拠づけが極めてあいまいだ。件の本の著者は、徴兵制は平和の維持に結びつくといっているが、なぜそうなのかについては言及していない。ただ、他国との比較で、日本も徴兵制を導入して不思議ではない、というような言い方をしている。これでは徴兵制が、戦争を前提とした制度だということを踏まえた真面目な議論とは言えない。座談者たちは、徴兵制をそれ自体独立したテーマとして捉えるあまりに、徴兵制の意義について、捉えそこなっているのではないか。その結果、徴兵制には国民を教育する機能があるなどと、本質から外れたことばかり言っている。徴兵制にどんな教育機能があるのか、小生にはわからぬが、とりあえず思い浮かぶのは、野間宏の小説「真空地帯」が描いたような、全体主義的な洗脳の場としての内務班のようなものが大々的に復活するのではないかという懸念だ。

本の著者は、父親が自衛隊に所属していたというから、自衛隊の存在自体には疑問がないようだ。その自衛隊の存在を当然の前提として、それをいかに効率的に運営するか、というような視点から、徴兵制を論じているように伝わって来る。軍学共同研究のすすめなども、自衛隊の効率的運営にかかわるものだ。要するに、日本が軍事大国になることをめざすような議論になっている。そこに小生などは、かなりの違和感を抱くところだ。





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