治療塔:大江健三郎を読む

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「治療塔」は、副題に「近未来SF」とあるとおり、SF小説である。大江がSFを書くのはこれが初めてだが、SFの狭義の意味ではそういうことになるものの、大江にはもともとファンタスティックな面があるので、読者としては大した違和感は持たずに読める。大江はこの小説ではもう一つ実験をしていて、それは女性を語り手にしていることだ。大江の文章はどちらかといえば男性的なほうなので、というのは骨格がしっかりしていて、論理展開に無理がないという意味だが、そういう文体の大江が、女性に語らせるというのは、かなり思い切ったやり方だと思う。大江は前作の「人生の親戚」で、初めて女性を主人公に据えたのだったが、それでも語り手は男性だった。男性の眼で見た女性を描いたわけだ。大江はそれに飽き足らず、女性の視点から小説を書いてみたいと思ったのだろう。もっともあまり成功しているとは思えないが。

テーマ設定はいかにも大江らしい。21世紀の出来事を描いているのだが、核戦争と原発の爆発が重なって地球は深刻な危機に見舞われる。その危機への予感は、大江のそれまでの作品世界でつねに鳴り響いていたわけだが、その予感が現実化した後の地球の状況を、この小説はテーマにしているのだ。しかもその描き方はかなりアイロニカルである。危機に直面した人類が、なんとかして生き残るために知恵を絞る。それは選ばれたものだけが別の惑星に新たな居住環境を求めるというもので、その惑星を新しい地球と名付けて、植民活動をするのだが、結局はうまくゆかないで、地球に舞い戻って来る。戻って来た彼らは、特別な身体能力を持つようになっていて、それでなくとも並みの人間より能力が高かった彼らは、地球の残存し続けた人間よりは、はるかに強い能力を持っている。その能力を活用して、残存し続けた人間たちを支配し、地球をもっぱら彼らのために利用する一方、彼ら自身は未来に向けて進化し続けようという意思を持っているというような、かなり倒錯した世界を描いているのである。

これからわかるように、この小説には二つのテーマが埋め込まれている。一つは核戦争による地球の破壊であり、もう一つは生き残りをかけた人類が分裂し、強いほうの集団が弱いほうの集団を抑圧するという、よくあるパターンの話である。強い方の集団は、地球を脱出する時に、高い能力をもった人間だけを選抜したのだったが、その数は百万人、地球の全人口に比べれば浜の砂のうちの一粒にすぎないのだが、これが他の人間たちを支配しようとする。しかもその支配の仕方は、弱い者たちの犠牲の上で、自分たちの生存を優先させようというものだ。人類には階級分裂の傾向のようなものがビルトインされていて、それは地球の危機というような特別な状況では、増幅された形であらわれる。そう大江は考えているようである。

そんなわけでこの小説は、核戦争がもたらした地球の危機において、階級分裂した人類が、互いに生存をかけて戦うというような構図をとっている。その構図の中でも、人間としての感性を失わない者はいて、そうした人同士、この場合には選ばれた男と、落ちこぼれの女との間で、愛が芽生える。この小説は、そうした人間的な愛を描くことで、わずかに人間性への希望をつなぐといった風情を感じさせる。

とはいっても、テーマ設定がいかにも現実離れしているので、どちらかというとリアルな現実描写を身上とする大江としては、いささか場違いな印象は否めない。その場違いな印象は、小説のエンディングに締まりがついていないというところに強く現われている。語り手の女性は、自分たちを迫害する敵を、それが愛する人の父親だということを考慮にいれても、憎むことができずに、曖昧な感情を持つのだ。

もうひとつ、選ばれた者たちが新しい地球で、超人間的な能力を持つようになるプロセスも不自然さを感じさせる。新しい惑星には、治療塔と呼ばれる不思議な物体があって、その中に横たわることによって、超人間的な能力が備わるということになっている。いつまでも若々しいままであるというのが、その最たるものだが、病人は治癒し、場合によっては死者も生きかえることになっている。そんな能力を獲得したばかりに、彼らは地球に戻ったあとその能力を失うことを恐れ、自分たちだけで進化を続けることができるように、落ちこぼれとの通婚を禁止する。通婚の禁止にとどまらず、選ばれたものたちは、自分たちの都合のよいような法律を定め、あらゆる領域にわたって支配権を確保しようとする。そのあたりは、現実の人間社会への、大江なりの批判意識を感じさせる。

こんな具合にこの小説は、SF的な設定の中に、現実の人間社会への批判を織り込んだというところもあり、しかもそれが女性の視点から語られるという意外さもあるのだが、小説としてはあまり成功しているとはいえないようである。






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