合田正人のレヴィナス論

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合田正人はレヴィナスの翻訳者として、レヴィナスの主要な著作をほぼ網羅する形で、日本に紹介してきた。小生も「レヴィナス・コレクション」や「存在の彼方へ」といったレヴィナスの著作を合田の訳で読んだ次第だ。「レヴィナス・コレクション」はともかく、「存在の彼方へは」はかなり難解な書物で、読解するのに非常に難儀した。それがレヴィナス自身の文章に起因するのか、それとも合田の訳に原因があるのか、小生には断定できないが、熊野純彦訳の「全体性と無限」も、難解という点ではひけを取らなかったので、おそらくレヴィナス自身の文章に主な原因があるのだと思う。その難解な文章を合田は、よく訳しているといってよいかもしれない。

合田はレヴィナスの著作を翻訳する傍ら、自分自身のレヴィナス論も発表している。「レヴィナスを読む <異常な日常>の思想」は、かれのレヴィナス論の中核となるものだ。合田はこの書物のなかで、単にレヴィナスの思想の紹介にとどまらず、レヴィナスを同時代の思想の動向と関連付けながら、批判的な言及も行っている。その批判にはかなり鋭いものがあり、レヴィナス本人が読んでも反省を迫られるようなものがあるのではないかと、読みながら感じた次第だ。ここでは、レヴィナスへの合田の批判のうち、小生なりに核心をついていると思った部分に二三言及してみたい。

まず、レヴィナスのシオニズムに対する批判だ。レヴィナスがユダヤ人としての自分の出自に強くこだわり、ユダヤ的なものへの共感を強く表明したことはよく知られている。小生はそうしたレヴィナスの姿勢を、かれがユダヤ人として被った過酷な体験(ホロコーストにかかわる体験)に起因しているのだろうと考え、それには一定の理由があるのだろうと考えていた次第だ。しかしそう考えるについては、レヴィナスは普遍的な人間性の立場に立ちながらホロコーストを批判したのであって、狭隘な民族精神に駆られてのことではなかったと思い込んでいたのであったが、合田のこのレヴィナス論を読むと、実際にはレヴィナスは、狭隘な民族精神に凝り固まっていたのではないかと思わせられる。ユダヤ人にとっての狭隘な民族精神はシオニズムという形をとるが、レヴィナスはこのシオニズムにこりかたまっていたという批判が、この合田の本からは読み取れるのである。

その一例として合田があげるのは、1967年の中東戦争に際して、レヴィナスがイスラエルの侵略を支持して「イスラエルが過ちを犯すことはありえない」と発言し、1982年のイスラエルによるパレスチナ難民虐殺に際しては、「ユダヤの同胞を護ることは隣人を護ることである。個々のユダヤ人がその民族を護るとき、かれは隣人を護っているのだ」と言って、ユダヤ人の行為を擁護したことをあげている。そういう立場に立ってレヴィナスは、1986年のタルムード読解では、パレスチナ人たちを「真の人間ならざる者」と断定し、その根付きを批判したというのである。

これは非常に狭隘な民族精神であり、言ってみれば、ナチスがユダヤ人に対して行ったことを、ユダヤ人がパレスチナ人相手に行っているというほかはないのだが、そのユダヤ人のパレスチナ人へのホロコーストをレヴィナスは認めていたというふうに、合田の文章からは伝わってくるのである。

レヴィナスがこのように主張する背景には、レヴィナス特有のユダヤ民族意識があるらしい。レヴィナスは、万人が万人に対して責任を負う社会をめざしていたが、そうした社会をレヴィナスはイスラエルと呼んで、イスラエルとは真に人間的な人間の別名だとした。つまりレヴィナスにとって真に人間的な人間はイスラエルにいる人間、それもユダヤ人であって、イスラエルに敵対する人間は、パレスチナ人がその典型であるが、人間とは言われないのである。だからそのパレスチナ人がユダヤ人によって虐殺されたからといって、問題にはならない。虐殺が問題になるのは人間に関してであって、真の人間ならざるパレスチナ人には、虐殺という言葉は当たらないというわけであろう。

以上の論理展開が、レヴィナス自身の内心から出ているものだとすれば、レヴィナスという人間は、ヒトラーを裏返しにした精神構造を持っていたといえなくもない。読者にそう思わせるように、合田のこの本は書かれているのである。合田はシオニズムという言葉を使ってはいないが、レヴィナスのユダヤ贔屓はシオニズム以外のものではないだろう。

二点目はレヴィナスの人間性論についての批判である。レヴィナスは、人間の本源的なあり方は、糧を享受する消費にあるとした。これは「全体性と無限」のなかで詳細に展開された主張で、「存在の彼方へ」でもその主張は維持されているから、人間性の本質についてのレヴィナスの持論といってよい。このように消費を人間の本質とする見方は、同じくユダヤ人であるアーレントも共有していた。アーレントはマルクスを強く意識しながら、人間の本来的なあり方は、マルクスがいうような労働ではなく、消費だと言った。労働は人間を打算的で卑劣な存在にする傾向が強いのに対して、消費は人間の可能性を拡大させる。そうした見方をレヴィナスもしていて、人間の本質は消費する生き物だとしたわけである。レヴィナスにとって労働が問題になるのは、それが所有を基礎づけると点にあるが、所有は消費の前提なのである。つまりレヴィナスにとっては、消費こそが最終的な目的ということになる。マルクスにとって消費とは「単に動物的な生活」の次元に過ぎなかったが、アーレントやレヴィナスにとっては、消費こそがまさに人間的な次元を指示していたわけである。こういうかれらの姿勢には、長らく西洋社会の労働の産物に寄生してきたともいうべきユダヤ民族の歴史が反映しているといえるかもしれない。

三点目は、レヴィナスの貨幣への視線についての批判。シャイロックに限らず、貨幣への固執はユダヤ民族の本性ともなった傾向であるが、その傾向をレヴィナスも又共有していると合田は言う。マルクスが「ユダヤ人問題によせて」の中で言っているように、「貨幣は金銭人間にして市民であるユダヤ人にとっての眼に見える神」なのである。その貨幣について、マルクスは(共産主義社会を通じて)究極的には廃止することをめざしたのに対して、レヴィナスは貨幣のうちに「より高度な正義の形態」を見たのだという。レヴィナスにとって貨幣とは、ユダヤ人としての生き方を支えてくれる最も力強い神だったわけである。

貨幣論と関連して、合田はレヴィナスの倫理学も批判している。レヴィナスの倫理学は隣人愛に基礎づけられているのであるが、その隣人愛の基礎となるのは自己贈与である。これは隣人つまり他者への無条件の贈与という形をとるわけだが、この自己贈与についてマルクスは過酷な搾取を読み取っていた。労働者は、正当な対価以上に自分の労働を贈与することで、資本家をもうけさせているが、それは言ってみれば自己贈与のようなものだというわけである。それに対してレヴィナスは、自己贈与とは隣人愛のあらわれだという。つまり、搾取されるのではなく、自ら進んで贈与するというのが、資本家に対する労働者のあり方だというわけである。

このようにレヴィナスに対する合田の批判はかなり徹底している。それは単純化して言うと、レヴィナスが人間性の名を以て語っているところは、ユダヤ人としてのレヴィナスの狭隘な民族精神のあらわれだということに帰着しそうだ。レヴィナスには厳しい見方である。同じくレヴィナスの研究者で、レヴィナスの著作の翻訳もしている内田樹が、ほぼ一方的なレヴィナス礼賛に徹しているのに比べれば、合田のレヴィナス論は辛口の批判になっている。






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