死について2

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ハイデガーは、人間が有限な存在であることに着目した。有限な存在とは、死すべき存在であるということだ。人間には誕生があり、死がある。始まりと終わりとで区切られた存在、それが人間なのである。そこから時間の観念が生じる。時間というものは、有限な存在について初めて意義をもつ観念なのである。もしも人間が、誕生する以前から存在し、死を超えて存在し続けるとしたら、つまり永遠に存在し続け、誕生することもなければ、死ぬこともないとしたら、時間という観念は生じないだろう。時間の観念は、ある一定の限定された存在のあり方から生じて来るのであって、限定されていない存在のあり方からは生じようがないのだ。もし私が、永遠に死なないとわかっていたら、時間を気にする根拠はどこにもない。時間というものは、人間が自分自身に向けた気遣いのようなものなのである。

ハイデガー以前にも、死が注目されなかったわけではない。キリスト教は、人間は死すべき存在だということを強調してきた。キリスト教が教えてきたことは、人間はいつかは死に、死後神の裁きを受けるという考えだった。しかし、死後に神の裁きを受けるとはどういうことか。裁きをうけるのは私自身なのであるから、私は神の前では死んでいては不都合なはずである。本当に死んでしまっていて、私の痕跡がこの世界から消滅してしまったのであるなら、私はすでに存在していないのだ。存在していない私を、神と雖も裁くことはできない。ということは、キリスト教の教える死とは、本当の死ではないということを意味する。キリスト教の教える死とは、偽の死であるといわざるをえない。

これに対してハイデガーのいう死とは、本当の意味での死である。私は死ぬことによって存在の根拠を失う。私は存在することをやめる。死ぬことで私は存在しなくなるのであるから、私の存在を前提にした事柄、たとえば神による裁きというようなものもありえないということになる。死ぬことで私は、きれいさっぱり私ではなくなるのであるから、そのなくなった私を神が裁きようもなく、また私の存在を前提にするかのような、あらゆる事柄は意味を失う。死ぬこととは、単に私の意識が曇るというような生易しいことではなく、私が、私の痕跡も含めて、この世から消えるということなのである。だから死は、私にとっては、決定的に重要な意義を持つ。死は、誕生と相呼応して、私の存在の有限性の範囲を限るのである。

ハイデガーは、死を根拠とする人間の有限性が時間の観念を生むと言った。私は死を意識することで、その死を起点として、自分の生涯の全体像をあらかじめ思い描くことができる。誕生で始まり死に終わるその有限な存在は、一定の時間的な長さとして表象される。存在が有限であるからこそ、その有限な存在を区切るものとして時間の観念が生じるのだ。かくしてハイデガーは、存在、それは人間においては現存在という形をとるが、その現存在を時間との関連において分析する。ハイデガーにとって、人間存在すなわち現存在とは、時間的な存在なのである。というか、現存在の存在のあり方が、時間としての存在なのである。

時間の観念について、ハイデガー以前に綿密な考えを展開したのはカントである。カントの時間は、人間にそなわったアプリオリな認識枠組みであった。それは認識の枠組みであるから、たしかに人間にとっての内在的な枠組みであるが、あくまでも認識にとっての条件であって、存在そのものの条件ではない。ところがハイデガーにあっては、死は存在の限界という意味での条件であり、その死によって時間が規定されている限り、時間は人間存在の根底をなす。カントの時間が認識の前提に止まるのに対して、ハイデガーの時間は存在の様相という意義を帯びているのである。

ヘーゲルも時間を意識した思想家だったが、ヘーゲルの時間は、弁証法を基礎づけるという意義を持たされる限りで、やはり認識の条件として捉えられている。そんなわけで、死とそれが限定する時間を人間存在の本質的な問題として取り上げたのは、ハイデガーの大きな業績だといえる。

だが、ハイデガーの死をよくよく検討してみると、その死は、私の存在を限定づけるものではあっても、私にとって死が持つ衝撃の強さは明らかにならない。何故ならハイデガーの死は、私の存在を限定づけるという形式的な意義を主張するだけで、その意味では私にとっては外在的な案件にとどまるのである。私はたしかに死すべき存在であり、死によって私は自分の存在の有限性を了解するのであるが、死自体を私が体験するわけではない。その意味で、死は私にとっての内在的な案件としてではなく、あくまでも私の存在を外部から制約する外在的な案件ということになる。そんな死ならば、私は私の存在をかけて死を受け止めたということにはならないのではないか。そんな疑問を呈した思想家が現れた。レヴィナスである。

ハイデガーを含め、先行する思想家たちが死をその全き姿で捕らえそこなったのは、死をなにか、人間にとってよそよそしい出来事として考えたからではないか、そうレヴィナスは考える。死を本当に理解するためには、それを自分にとってのかけがいのない出来ごととして、いわば自分自身の内在的な体験として捉える必要がある。死を内在的に体験できないことは、エピクロス以来強調されてきたことであるが、考えようによっては、人間は死を内在的に体験することができる。実際に、ホロコーストに直面したユダヤ人たちは、そのようなものとして死を体験したはずだ。そうレヴィナスはいうのである。

ハイデガーの時代までは、戦争がもたらす死は、物理的な量としては圧倒的だったが、それらは人間の外部からもたらされる死であった。ところが、第二次大戦にあっては、戦争は人間を外部から破壊するのみでなく、人間の内部にも侵入し、内部から人間を破壊するようになった。そんな戦争によってもたらされる死は、人間をしていきおい、存在の根本に立ち返らせることともなった。レヴィナスの主著「全体性と無限」は、戦争がいかに人間性をおびやかすかについての言及から始まっているが、その戦争のむき出しの暴力が、個々の人間に死そのものを、自分の内面の出来事として考えさせるようになったのである。

レヴィナスの思想の特徴は、他者の問題から出発することである。他者から出発することで、初めて人間の存在とか世界のあり方が、その十全な姿で理解できる。ところが従来の思想は、私から出発し、その私によってすべてを根拠づけた。他者もまた私によって構成された、私の産物のようなものだった。そういう立場からは、他者を正しく理解できないことはもとより、自分自身も理解できない。ましてや、自分にとっての死の意義とか、時間の意義とかを理解することもできない。何故なら、自分から出発する考えにあっては、死もまた自分自身のうちに根拠を持たねばならない。しかし、人間というものは、自分自身によっては死を根拠づけることは出来ない様にできている。何故なら、エピクロスのいうとおり、人間は死を自ら体験することは出来ないからだ。

死の意味を本当に理解するためには、死を自分自身によって基礎づけるという態度を改めなければならない。死は、私の内部に基礎づけられるのではない。死は、私の外部からやってくるのである。つまり死は到来するのである。その意味では、死は私にとっての他者なるものだ。その他者なるものとしての死を、私は私自身のこととして体験するのである。





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