敗戦、ドイツの場合2:日本とドイツ

| コメント(0)
第二次世界大戦で被った日独両国の損害を見てみよう。まず人的損害。ドイツの死者については、最終的な正確な数字は確定していないようである。それには、敗戦前後における混乱で、民間人を含めた大勢のドイツ人が、ソ連に連行されたり、あるいは行方不明になったりして、正確な数字が追求できなかったという事情が働いている。日本の場合には、多少の入りくりがあるが、ほぼ310万人が死んだとされているのに比べれば、ドイツの場合にはその倍以上の人間が死んだと言われながら、詳細は明らかではない。

ドイツの死者の数は、最低に見積もって600万人、最大に見積もって800万人乃至900万人という具合に、数の推定に大きなギャップがある。いまここに、ドイツの人的損害についての推定例を示してみよう。筆者の活用できるデータの範囲内であることを断っておきたい。まず三島憲一著「戦後ドイツ」(岩波新書)によれば、国防軍の戦死者376万人、行方不明者50万人、空襲の犠牲者50万人、終戦直後に東部地域からの逃避行のなかで犠牲になった者約200万人、合計676万人である。もっともこの書物には、この数字の裏付けとなる資料は明示されていない。

ついでWikipedia 英語版によれば、軍人の死者が444万人乃至531万人、民間人の死者が150万人乃至300万人で、合計は690万人乃至740万人となっている。計算が合わない部分は、どこかで二重計上等統計上の不具合があるからだろう。また同じくWikipediaの日本語版によれば、軍人の死者が430万人乃至550万人、民間人の死者が150万人乃至350万人、合計が700万人乃至900万人となっている。これも足し算に計算の合わないところがある。いずれにせよ。この場合に母数となるドイツ人の人口が7000万人前後だったことを踏まえると、人口の一割前後が戦争のために死んだことになる。これは、ドイツによって攪乱されたソ連の死者(2000万人以上といわれる)を別にすれば、大国のなかではもっとも高い死亡率であり、日本の比ではないといえる。

ドイツ人の、戦争による死者のうちもっとも注目すべきは、東プロイセンなど東部地区からソ連兵などの迫害を逃れて来た人々が、悲惨な死を遂げたことである。それには広範にわたる虐殺や強姦が伴ったとされる。それについては、ドイツ兵によって身内が殺されたり強姦されたりしたソ連兵たちの、私的な復讐心が働いたという見方もある。戦争末期のどさくさのなかで、迫りくるソ連兵から大勢のドイツ人が逃げ惑ったわけだが、いままではソ連に対してやりたい放題に振る舞ってきたドイツ人が、そのツケを払わされたということかもしれない。だが、非戦闘員に対する虐殺・強姦は、どんな理由でも正当化できない。戦争犯罪というべきであろう。

東部地区からのドイツ人の避難については、興味深い逸話がある。ヒトラーの後継者に指名されたデーニッツは、海軍総督として、海軍の全力を挙げて、東部地区からのドイツ人の避難に力を入れたという話である。これはどうも実話らしく、デーニッツは敗戦以前から、東部地区のドイツ人を、海軍の艦船に乗せて、シュレスヴィヒ・ホルスタインなど、ドイツ西部の非戦闘地域へ避難させたという。これについては、日本人の太平洋戦争研究者半藤一利が大変評価しており、日本の軍部による対応と比較して、各段に優れていたと言っている。日本の軍部は、敗戦が確実になると、まず自分たちの家族を優先的に日本に送還し、一般人を見殺しにした。それに比較すると、デーニッツは軍人が献身的な働きをして、民間人の命を救ったというふうに評価している。そういう話を聞かされると、筆者などは、日本の軍国主義のグロテスクな一面をあらためて突き付けられるようで、気が滅入るのを感じる。

大勢の民間人が、敗戦のどさくさで命を失ったほか、軍人の多くが捕虜としてソ連国内に連行され、強制労働に従事させられた。これについては、スターリンはヤルタ会談の密約のなかで、米英仏の了解を得ていたと言われる。ソ連は、ナチス・ドイツによって莫大な人的損害を被り、戦後復興のために必要な労働力が極端に不足する見込みだった。その不足を補うために、一定期間ドイツ兵を、ソ連の戦後復興のための労働力として活用したいというわけだった。これには、後になって日本軍もとばっちりを受けることになる。日本はソ連に対して人的損害を与えたわけではないので、ソ連の労働力の穴埋めをするために強制労働させられるいわれはないのだが、ソ連によるドイツ兵搾取に、同じ敗戦国として付き合わされた形である。なお、ソ連によって連行され、強制労働に従事させられたドイツ兵は、数百万人とも一千万人以上ともいわれており、全貌は明らかではない。またどれくらいのドイツ兵が、強制労働のなかで死んでいったかについても、明らかではない。60万人とも100万人ともいわれている。日本の場合には、60万人が連行されて、そのうち一割程度が死んだとされているから、それに比べれば、すさまじい規模とはいえる。

東部ドイツからの避難者について触れたが、避難者はそれだけではなかった。ドイツは大戦中、ポーランド西部、チェコスロバキア、ハンガリーをはじめ、さまざまな国を占領し、それらの占領地域からも大量のドイツ人が西部ドイツを中心にしたドイツ各地に避難した。これには、占領されていた国々によって、戦後ドイツ人の追放政策を取られたことが働いていた。各国の政府は、国内にいたドイツ人を、一切の保証なしに、一方的に追放した。それに対して、ドイツ側は何も言うことが出来なかった。ただ、石もて追われる立場に甘んじたのである。これらの被追放者には、ドイツの伝統的な領土だった東プロイセンやケーニヒスベルグなどの人びとも含まれていた。それらの地域に先祖代々住んでいたドイツ人は、命からがら、身一つでドイツ西部に非難しなければならなかったのである。これは、以後のドイツに大きな重石となってのしかかってくることになる。なにしろ国土の一部を取り上げられて、そこに住んでいた人々が、丸裸で追われたわけだから、かれらは国の不幸を一身に背負わされた格好になった。それゆえ、彼らの不幸を、ドイツ政府は個人的に受忍すべきものだとして突き放すわけにはいかなかったし、かれらもまた、自分たちは国の為に犠牲になったのだから、その保証を国に求めるのは正当なことだと主張した。その主張にドイツ政府は、できるだけ応えようと努力した。特別の税制度を作って、国民全体の負担で、ひどい目にあわされた人々の損害を、幾分なりとも保障しようとしたのである。その点、空襲や原爆災害によって損害を被った人々に対して、受忍の範囲内だとして突っぱねてきた日本とは、まったく異なった対応だったといえる。





コメントする

アーカイブ