ソクラテスの弁明を聞くその四

| コメント(0)
自分には死を恐れる理由はないと語ったソクラテスは次いで、自分を殺すことはポリスにとっての損失になると主張する。その理由としてソクラテスがあげるのは、「わたしは何のことはない、すこし滑稽な言い方になるけれども、神によってこのポリスに、付着させられているから」というものだった。「つまり神は、わたしをちょうどその(馬を目覚めさせておくための)あぶのようなものとして、このポリスに付着させたのではないかと、わたしには思われるのです。つまりわたしは、あなたがたを目ざめさせるのに、各人一人一人に、どこへでもついて行って、膝をまじえて、全日、説得したり、非難することを、少しも止めないものなのです」。そんな私を殺すことは、あなた方を目ざめさせる者がいなくなることを意味し、したがってポリスは全体が眠ってしまうようなことになるであろう。それは不都合なことに違いない。それなのに私を殺そうとするのは、「眠りかけているところを起された人々のように、腹を立てて、アニュトスの言に従い、わたしを叩いて、軽々に殺してしまう」ようなものだ。

自分が死に直面する理由になった事柄は、私的なことをめぐって、いらぬおせっかいを焼いたということだが、では、公の事柄を行っていたとしたら、どうなっただろうか。ソクラテスはそう自問したうえで、その場合には、もっと早い時期に死に直面していたであろうと言う。わたくしの事柄でも世間の怒りを買うのであるから、公の事柄ならいっそう大きな怒りを買うだろうというわけである。それ故ソクラテスは、公の事柄からは意識して遠ざかってきたが、それは又、神の導きにもよるのだと言って、自分の奇妙な体験について語る。それは、「子どもの頃から始まったもので、一種の声となってあらわれるのでして、それがあらわれる時は、いつでも、わたしが何かをしようとしている時に、それをわたしにさし止めるのでして、何かをなせとすすめることは、いかなる場合にもないのです。そしてまさにこのものが、わたしに対して、国家社会(ポリス)のことをなすのに、反対をしているわけなのです」と言うのである。

この声とは、ソクラテスのダイモンと呼ばれるもので、以後、さまざまな対話篇のなかでも言及される。そのダイモンの声が、ソクラテスに向って、公の事柄にはかかわるなと言うわけである。そういうわけでソクラテスは、かつて公職についたことがなかったのだが、例外として二度、公の事柄に巻き込まれたことがあった。その一つは、政務審議会の議員になったことだった。その政務審議会というのは、ポリスの最高機関で、いわば国会と内閣をあわせたような機関であるが、そのメンバーは、アテネに十ある部族の中から、輪番制によって選ばれる。そこでソクラテスにもその番が回って来たのだろうが、その政務審議会の在職中に、軍事委員に対する不当な処置に対して、一人反対の意思表明をした。そのことで、ほかの審議委員の怒りをかい、あやうく告発されるところであった。これは自分の信念に基づいてのことであったが、もし自分が、重要な公職についていたなら、もっと危険な目に遭ったに違いない。

もう一つは、三十人の革命委員会が権力を握ったときに、かれらの本部があった円屋に呼び出され、サラミスの人レオンを殺すために、連行してくるように命じられたことがあった。その際も自分は、良心にしたがって命令を拒否したのだったが、幸いかれらが間もなく失脚したことで、難を免れることができた。かれらがもう少し長い間権力を握っていたら、自分は殺されていただろう。そんなわけであるから、もし自分が好んで公の仕事に従事していたら、この年まで生き延びることはできなかったであろう。

以上のソクラテスの話は、裁判の大道からはずれた脇道のようなものだが、いよいよソクラテスの弁明も終末を迎え、裁判員による表決の段取りに進む。それを前にしてソクラテスは、面白いことを言う。自分がなぜ、裁判員個人個人に対して、無罪にしてくれとか、罪を軽くしてくれとか頼まなかったか、その理由を述べるのである。

まずソクラテスは、法廷に自分の知り合いが沢山来ていることを指摘する。その中には、プラトンもいて、ソクラテスはかれを、アリストンの子アディマントスの弟として紹介している。そのプラトンを含めた大勢の知り合いがこの法廷にやって来たのは、自分の有罪を楽しむためではなく、かえって自分を助けたいと思ってのことである。なぜかれらはそんなことをするのか。それは、「メレトスのは虚偽であり、わたしのは真実であるというのを、直接によく知っているから」だとソクラテスは言って、自分の無罪を改めてアピールする。

ソクラテスはまた、自分には三人の子があって、そのうちの一人はすでに青年で、二人はまだ小さな子どもだと断ったうえで、自分は息子たちをこの法廷に呼んで、父親を無罪にしてくれるように、裁判員たちに懇願させるようなことはしなかったと語る。外聞のことはさておいて、そういうことは正しいこととは思わないからだとソクラテスは言うのである。自分は神を信じているから、自分に対して正しい結論が出るだろう。だから裁判員に対して姑息なことなどせず、その良識に期待する、というような趣旨のことを言って、ソクラテスは、裁判員たちに妙な圧力をかけるのであるが、その思いに反して、裁判員たちは、ソクラテスに有罪の評決を下すのである。

その評決に対してソクラテスは、意外なことに、「この結果は、わたしには意外ではなかったのです」と答える。その理由は、評決のうちの、無罪と有罪との差が、非常に小さかったということだった。要するに、ソクラテスを無罪だと思っている人が、全体の半数近くいたということで、それは自分を信じてくれている人がそれだけ多いということを意味しており、とりもなおさず、自分のしてきたことが、神々だけでなく、多くの人間たちにも認められたことを意味する。まあ、そんなふうなことをソクラテスは言って、自分自身を納得させようとしているのであろう。

こういう事情を踏まえてソクラテスは、自分は無罪だと改めて主張し、そんな自分に相応しい刑罰はなにかについて意見表明をする。というのも、当時のアテネの法廷では、有罪を宣告された被告には、自分に下されるべき刑罰について、意見を述べる権利があったようなのだ。ソクラテスはその権利を行使して、自分に下される刑罰としてどんなものがふさわしいか、述べる。それは、「国立迎賓館における食事」というものだった。人を馬鹿にしているとも聞こえるこんな主張をソクラテスがしたのは、「自分のほうから、何かの害悪を受けるのが当然だと言って、自分自身のために、何かそういう科料を申し出て、自分自身に不正を加えようとすることは」、思いも及ばぬことだからだ。ましてソクラテス自身は、自分のしたことに罪悪感を抱いていない、むしろ無実だと思っている。であるから、自分自身に対して、たとえば拘留を申し出るようなことはナンセンスである。そんなことになったら、自分は刑務所の中で、十一人の役人の奴隷となって、生きていかなければならない。そんなことをなぜしなければならぬのか。また、罰金刑を申し出て拘留を逃れようとしても、自分には支払いの能力がない。金をとって人に教えるようなことをしてこなかったからだ。こう言ってソクラテスは、自分に相応しい刑罰は、「国立迎賓館における食事」であるとして、譲らないのである。






コメントする

アーカイブ