新憲法、ドイツの場合:日本とドイツ

| コメント(0)
戦後、ドイツの新憲法制定が日本より2年以上も遅れたのは、統一ドイツの姿が見えてこなかったからである。その原因は主にソ連にあった。ソ連(ロシア)は、国境の西側から度々侵略を受けて来たという歴史を持ち、第二次大戦においてもドイツによって侵略されたという苦い記憶があった。それゆえ、統一ドイツが未来のソ連にとって再び重大な脅威となることを嫌った。そんなわけで、統一ドイツに関する協議には加わらなかった(1947年12月15日には米英仏ソの外相会議が決裂している)。それどころか、ソ連が分割占領していた東ドイツを、ソ連の衛星国家として再編し、傀儡政権に運営させようとする意志を露骨に示した。

そんななかで、アメリカが中心となって、西側だけでドイツ国家を創設する動きが強まった。米英仏の三国にベネルクス三国を加えた六か国で、西ドイツ国家創設についての方針が確認された。これについては、ドイツの強大化を恐れるフランスが、西側だけとはいえ、ドイツが統一国家として自立することに異議をとなえた。それについてアメリカは、フランスを含めたヨーロッパへの経済援助と、米軍のドイツ駐留の永続化を保障することで、同意をさせた。こうして1948年6月7日に、新憲法の制定とそれに基づくドイツ国家の創設を内容とする「ロンドン勧告」が出された。

さらに、西側諸国は、制定されるべき憲法の基本原則をまとめたうえで、新憲法の制定手続きを、州首相会議に手交した。日本と異なり、当時のドイツには中央政府が存在していなかったからである。その基本原則を記した文書は、フランクフルト文書と呼ばれるが、これは日本の場合のマッカーサー・ノートに相当するものといってよい。そこに記された基本原則とは、ドイツはアメリカ同様連邦型の国家たるべきこと、個人の権利と自由を保障すべきというものだった。

これを受け取った州首相会議は、最初はとまどいの反応を見せた。ドイツ人自身は、東側を含めた統一ドイツの実現を望んでいたが、西側だけでの国家創設は、東側との永久の分断をもたらしかねない、というのが最大の理由だった。また、憲法を作って中央政府ができたとしても、分割占領が続くかぎり、ドイツの自主性は保証されない。まず分割占領を終わらせ、戦争状態を終了させたうえで、ドイツを独立国家として認めさせるのが先決だという思いもあった。さらに、当時の州政府の多くは社会民主党が政権を握っていたが、社会民主党は、西側ドイツ国家が西側の体制に組み込まれることで、ドイツが冷戦に巻き込まれることを恐れた。

しかしそうしたドイツ人の思惑は、国際政治の冷徹な現実に押しつぶされた。1948年6月には、ソ連によるベルリン封鎖があり、東西冷戦が本格化する兆しを見せた。そんななかで、東西ドイツを統合した形での統一国家の実現は、およそ可能性がなくなったと見えた。そこで州首相会議も、西側連合国の求めに応じて、西側だけでのドイツ国家の創設へと動かざるをえなくなった。

こうして州首相会議主導による憲法制定のプロセスが始まった。そのプロセスを連合国側は、基本的に尊重した。新憲法の基本原則を示すことはあっても、それの具体的な内容については、ドイツ人自身にまかせたのである。その点は、日本人による憲法草案を否定して、自分で作った憲法案を日本に押し付けたマッカーサーのやり方とは大いに異なっていた。そこには、マッカーサーがいみじくも言ったとおり、日本人はまだ正しい判断ができない少年のようなものであるのに対して、ドイツ人は、色々問題は起こしたが、基本的には自分で判断ができる成熟した大人であるとの見方が働いていたものと思われる。

新憲法制定にあたって、ドイツ人はいくつか強いこだわりを見せた。まず、この憲法によってドイツの分断が永久化されるようなことがないように、それを「憲法」ではなく「基本法」と称することで、これが統一までの暫定的なものだということを意思表示した。また、憲法制定にあたっては、連合国側は国民投票による決定を求めていたのだったが、ドイツ人は、これを議会の審議会の決定にゆだねた。そうすることで、この憲法が統一までの暫定的なものだということを、二重に確認したつもりだったのである。こうして、1948年9月1日に、各州議会によって任命された65人の代議員からなる憲法制定議会が招集され、基本法の制定手続きに入った。そして、1949年5月20日には決定され、5月23日には公布された。その間、アデナウアーが議論をリードし、後にドイツの指導者として登場するきっかけとなった。また、審議の内容に、各占領国の軍政府が異議をとなえる場面もあったが、ドイツ人の憲法はドイツ人自身が作るという強い世論に押されて、憲法制定議会の結論を受け入れた。

先にも触れたように、この憲法の制定にあたっては、連邦制の理念と個人の権利と自由を保障する規定を盛り込むべきだとの基本原則が示されていたわけだが、それについては、ドイツ人にも異存はなかった。彼らはナチスの苦い経験から、これから国際社会で生き残っていくためには、他国の脅威となるような強度の中央集権国家ではまずいだろうと思っていたし、またナチスの人権侵害を踏まえて、そうした事態を二度と起こさないためにも、人権保障を憲法のなかで明示する必要があると考えていた。そのほかで焦点となったのは、軍備の問題だった。新憲法のなかに、自国の防衛のための戦争とそのための軍備について明示すべきかどうか、そこが当然問題になった。日本の場合には、天皇制の存続とセットで、戦争の放棄と戦力の不保持を呑まされたわけだが、ドイツの場合には、そのような圧力は、表向きはなかった。だから、ドイツ人は自分の責任で、国防とそのための軍備について憲法で規定することができたのだが、そこはとりあえず、遠慮したかたちで妥協した。防衛権を積極的には主張しないが、かといって、日本の場合のように、それを否定するというやり方もとらなかった。もし、日本のように戦争放棄と再軍備の否定を明言したいたら、講和後の再軍備とか徴兵制の規定、それに基づくNATO軍へのドイツの参加といったことはむつかしかっただろうと思われる。

そうした防衛権にかかわる憲法上の規定は、ボン基本法第24条に示された。それは、「連邦は、ヨーロッパ及び世界諸国民間の平和な永続的秩序をもたらし、かつ保証するところの主権の制限に同意するであろう」というもので、将来予想される集団的自衛権の行使を念頭に置いた規定である。こうした規定をバネにして、ドイツのNATO軍参加が実現したわけである。





コメントする

アーカイブ