パイドロス読解その五

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ソクラテスが話したことの概ねを、念のために言っておくと、それは次のようなことであった。恋する者は必然的に嫉妬深くならざるをえないから、保護者として、また交際の相手として、どうみてもけっして有益な人間ではない。また、恋する者は、みずからの甘い恋の果実をできるだけ久しい間たのしむことをのぞんで、愛人ができるだけ長い間、結婚せず、子供がなく、家を持たずにいるようにと祈るだろう。更に、そういう人は恋の続いている間は有害で不愉快な人間であり、恋がさめてからは不実な人間になる。要するに恋する者の愛情は、けっして真心からのものではなく、ただ飽くなき欲望を満足させるために、相手をその餌食とみなして愛するのだということを知らねばならない、というようなことであった。

ソクラテスは、ここまで話すと、突然話をやめてしまう。そこでパイドロスは残りを話すように催促する。まだ半分しか話していないというのだ。ソクラテスは、恋する者のことについては語ったが、恋していない者についてはまだ語っていない。リュシアスを反駁しようというのなら、それもまた語らねば片手落ちになるというわけである。それに対してソクラテスは、これ以上語るわけにはいかないと言う。そんな精神状態ではないというのだ。いままでの話は、ディテュランボス調を超えて叙事詩の調子で語ってきた。それでもう精いっぱいなのに、これ以上熱い主題について語るのに、どんな調子で語ればよいかわからぬというのである。もし君パイドロスが、恋していない者についても知りたいというのであれば、恋している者の正反対を当てはめればよい。恋する者と恋していない者とは、なにからなにまで正反対だからというわけである。

ここでソクラテスは話を切り上げ、その場を去ろうとするのだが、なにかが自分を引き留めると言って立ち止まる。そのなにかとはダイモーンの合図だったとソクラテスは言う。それはいつでも、なにかをしようとするときソクラテスをひきとめるもので、そのことについてソクラテスはたびたび語っている。たとえば「ソクラテスの弁明」においては、「これは子供のときからはじまったもので、ひとつの声となってあらわれ、それがあらわれるときは、いつでも、私がなにかをしようとしているときに、それを私に差し止めるのでして、何かを為せとすすめることは、いかなる場合にも決してないのです」と語っている。

そのダイモーンの合図はソクラテスに向って、「神聖なものに対して何か罪を犯しているのだから、自らその罪を浄めるまでは、ここを立ち去ることはならぬと」命じているように聞こえた。そこで自分は、その罪を浄めなければならないと思う、そうソクラテスは言うのだ。実際ソクラテスは、ダイモーンの合図とは別に、自分がした話にはいささか罪の意識のようなものを抱いていたとも告白する。「げんにぼくは、あの話を語りながらも、ずっと前から、なんとなく胸騒ぎがしていた」と言うのだ。しかしなぜ、そんな胸騒ぎを感じてまでも、あのような話をしたのか、そのことについてソクラテスは触れない。あたかも、なにか自分の意に沿わない力によって促されたというかのようである。

ともあれソクラテスは、リュシアスの話も、自分がした話も、恐ろしい話だったのだと言う。なぜなら、リュシアスも自分もエロースを侮辱しているからだ。エロースがアフロディテの子として神であるのは明らかなことであるのに、そのエロースについて、リュシアスも自分も神に相応しい語り方をしなかった。それどころか、エロースが悪いものであるかのような口ぶりで語った。これはエロースに対して罪を犯したことになるのだ。そうソクラテスは言うのだが、その際、自分が語ったのは、自分の意思からではなく、パイドロスがソクラテスの口に魔術をかけて語らせたというような言い逃れをしているのが面白い。この言い逃れは、罪を逃れるための方便なのか、それともソクラテス一流のアイロネイアなのか、それはおいおいこれから先明らかになっていくであろう。

エロースに対して罪を犯したと感じるソクラテスは、なんとかしてその罪を浄めたいと思う。どうしたら罪を浄めることができるか。そのことについては、ステシコロスが教えてくれるとソクラテスは言う。ステシコロスは、ヘレネのことを悪く言ったために両眼の視力を奪われたのだったが、ただちにそれを取り消す詩をつくったことで罪をゆるされ、視力を取り戻した。その詩とは
  これなるはまことの物語にあらず
という言葉で始まるものだったのである。ソクラテスは、このステシコロスの教訓に従って、エロースを侮辱した物語を取り消し、エロースに相応しい物語をすることで、罪を浄めたいというのだ。なお、ここでソクラテスの言及したステシコロスというのは、コーラスの創始者とされる。ステシコロスという名は、「コーラスを設立した人」という意味で、かれの功績に基づいたあだ名だと思われる。

エロースに相応しい物語とは、エロースをたたえる物語である。その物語は、先ほどソクラテスが語ったような、恋する者を非難するような話ではなく、逆に恋する者をたたえるような話になるであろう。その物語を、リュシアスも是非語ったほうがよい。「ほかの条件が同じなら自分を恋していない者よりも恋している者にこそ、身をまかせなければならないという話」を是非書くべきなのだ。ついては、自分は早速エロースをたたえる話をしたいと思う。その話を、さきほど自分が話しかけた子にもしてやりたいと思うが、その子はどこにいるかね。そうソクラテスがしらばくれたような言い方をすると、語り掛けられたパイドロスも負けずにしらばくれて、「あの子ならここに、お望みのときにはいつでも、あなたの傍にひかえています」と答えるのである。

かくしてソクラテスの、エロースをたたえる物語が始まる。その物語は次のような言葉から始まる。

「自分を恋してくれる人がそばにいても、むしろ自分を恋していない者のほうに身をまかせるべきである、これは一方の人が狂気であるのに対して、他方は狂気だからだ、と主張する物語りは、真実の物語りではない。その理由はこうだ」

この語り方は、リュシアスの語り方を真似したものであるとともに、自分がした話を打ち消す意味もあるわけだ。リュシアスの語り方というのは、「ぼくは君を恋している者ではないが、しかし、ぼくの願いがそのためにしりぞけられるということは、あってはならぬとぼくは思う。その理由はこうだ」というものであった。






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