冷戦と講和、日本の場合1:日本とドイツ

| コメント(0)
日独両国とも、講和条約締結と主権の回復には、冷戦が強く影響した。冷戦で世界が東西に分かれてにらみ合うという状況の中で、両国ともに西側諸国だけとの講和という形をとった。その結果、日本の場合にはアメリカへの依存・従属を深め、ドイツは国の分裂という事態に見舞われることとなった。

冷戦は、ヨーロッパと東アジアでは異なった様相を呈した。ヨーロッパでは、ソ連が東欧の支配を強め、その支配の網に東ドイツをとりこんだ。それ故、西ドイツは、西側の一員として、ソ連に敵対する道を選ばざるをえなかったし、東ドイツとの統合も当分の間あきらめなければならなかった。それに対して東アジアでは、中国の内戦を共産党が制して、社会主義政権ができた。ひきつづき朝鮮半島では、ソ連や中国の後押しを得た金日成の勢力が、武力で朝鮮を統一しようとして、朝鮮戦争が起きた。東アジアでは、冷戦が熱い戦争に変わったわけだ。

朝鮮戦争は日本にも大きな影響をもたらした。とりあえず二つの大きな影響があった。一つは朝鮮特需という形での経済への影響であり、もう一つは、マッカーサーが在日米軍を朝鮮戦争に割かねばならなかったことを理由に、日本に対して、国内治安を主な目的にした警察予備隊の編成を命じたことだった。この警察予備隊が後に自衛隊へと発展していくのである。

朝鮮特需は日本経済を活性化させた。日本経済は、戦後ながらく停滞し、生産水準が戦前レベルまで回復することは当分期待できそうもないような状態だった。それにはアメリカが民主化の一環として行った財閥解体などの措置や、経営者の公職追放などの影響が指摘されていた。また、労働運動も、民主化の流れにそって盛り上がっていた。そのうえアメリカは、日本の経済復興にあまり関心を抱いてはいなかった。そのことを象徴的に示すのがドッジラインである。ドッジラインは、デトロイト銀行頭取ジョゼフ・ドッジが推進した政策だが、それは当時の日本が陥っていたインフレを解消するのが先決だという信念から、日本に過酷なデフレを強いるものであった。このデフレ政策が、日本経済を更にひどく停滞させる力に働いたわけである。

そうした事情が重なって、日本経済は停滞していたのであったが、朝鮮戦争が勃発するや、その軍需を日本が一手に引き受けるかたちとなり、そのことで日本経済は活性化できたのである。いわば偶然が作用して、日本経済を生き返らせたといってよかった。それは、他国の犠牲の上で、戦争遂行国たるアメリカに物資を売り込むものであった。これ以降日本経済の、輸出依存体質は、構造的なものになっていく。

この日本経済の復興をドイツ経済の復興と比較すると興味あることがわかる。ドイツの場合には、マーシャルプランによる復興支援が適用され、ドイツ経済はカンフル剤を打たれるような形で回復できた。マーシャルプランは、ドイツを含めたヨーロッパの復興を目的としたものだが、その背景には、西側諸国を結束させて、ソ連に対抗しようとするアメリカの意図があった。そんなわけで、ドイツの復興はアメリカの強い意志にもとづいて行われたのに対して、日本の場合には、朝鮮戦争という外的な要因によって復興がなされたという違いがある。そういう違いはあるが、どちらも冷戦の産物という点では共通している。要するに日独両国とも、冷戦のおかげで復興できたといえるのである。

朝鮮戦争は、韓国と北朝鮮との間の内乱ということにとどまらず、アメリカを中心とした国連軍と、中国義勇軍との戦いという性格をもった。要するに、冷戦でにらみ合っていた東西勢力が正面衝突したわけである。この戦争は1950年6月25日に金日成が38度線を突破して南に侵攻してから、1953年7月27日に停戦協定が結ばれるまで、三年あまり続いた。この戦争にアメリカは、莫大な戦力をつぎ込んだ。アメリカがこの戦争につぎ込んだ兵力は48万人にのぼる。在日米軍もつぎ込まれた。

緒戦は北側の圧勝で、韓国政府は釜山に疎開したほどだ。その様子を見ていたマッカーサーは、在日米軍全体を朝鮮半島に投入しなければなるまいと考えたが、そうすると日本国内が丸腰の状態となり、治安の維持が心配になった。そこでマッカーサーは、吉田茂に命じて、日本国内の治安維持を目的とした警察予備隊を作らせたのである(1950年8月10日)。吉田は、かならずしも賛成ではなかったようだが、マッカーサーの命令には逆らえなかった。こうして実質的な軍隊の卵というべき軍事力が、なしくずしの形で整備されていくことになったわけである。当時は、マッカーサーの意向は絶大で、国会といえども批判することは許されなかった。吉田個人としては、再軍備をするつもりはなく、この警察予備隊は、マッカーサーの命令に従って作った国内向けの治安部隊だと説明していたが、本人もそう思っていた可能性が強い。

朝鮮戦争の勃発は、アメリカに対日単独講和への意思を強めさせた。吉田茂も、朝鮮戦争をきっかけにして、単独講和を図り、主権を回復することを目指していた。かれは、講和は基本的には勝者側つまりアメリカの意思に基づくもので、敗者たる日本があれこれ口出しすべき性格のものではないと思っていたが、少なくとも講和についての日本側の意見を述べる機会を持ってもよいだろうと考え、腹心の池田隼人をアメリカに派遣し、日本側、つまり自分の考えを説明させたりした。

日本国内には、ソ連や中国を含めた全面講和を主張する動きもあったが、吉田はそうした動きを強く批判した。そして全面講和を主張する南原繁東大総長を曲学阿世の徒と呼んだ。吉田としては、この東西全面対決の時代に、全面講和に拘っていては、いつまでも主権を回復できないと考えたのである。

こうして、1951年9月8日、サンフランシスコにおいて各国の全権大使が集まり、単独講和条約たる「日本国との平和条約」(サンフランシスコ条約)が締結された。発効は翌1952年4月28日である。この講和会議には、アメリカをはじめとした対日戦交戦国が参加したが、中国は国民党、共産党いずれの政権も招かれず、ソ連は参加したが調印しなかった。また、韓国は参加を強く望んだが、終戦時に日本と交戦状態でなかったことを理由に参加を認められなかった。

以上から、日本の単独講和が、冷戦の産物であり、また朝鮮戦争の勃発に強く影響されていたことがわかる。その後遺症は、中国との関係回復が1978年8月12日の「日中平和友好条約」の締結まで延期され、ソ連とはいまだに平和条約の締結ができていないことにあらわれている。もっとも日ソ関係には、領土をめぐって深刻な対立があり、そのことが両国の融和をさまたげているのだが。





コメントする

アーカイブ