野のなななのか:大林宣彦

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「野のなななのか」というタイトルを見た時、何を意味しているのか見当がつかなかった。「なななのか」という劇をもとにしていると聞いて合点がいった。「なななのか」とは、なのかをななつ、つまり四十九日という意味なのだと。その意味するとおり、大林宜彦のこの映画は、ある人生の終わりと、それを受け止める人々の鎮魂の気持をテーマにしている。そしてそれをメーンテーマにしながら、日本の近代史の一コマを描いているのだが、その描き方には多分にアンゲロプロスの作風に通じるものを感じさせる。アンゲロプロスがギリシャの近代史を描いたような感覚で、日本の近代史を描いていると指摘できると思う。

この映画が取り上げた日本の近代史とは、対ソ戦争にまつわる歴史のことである。対米戦争や対中戦争を描いた映画は数多くあるが、対ソ戦争を描いた映画は非常に少ない。そういう点でこの映画は、大林宣彦のこだわりを感じさせるのではないか。対ソ戦は、日本が一方的に侵略された戦争だから、普通の意味での戦争とはいえず、日本側としてはソ寇とでもいうほかはないのだが、そのソ寇でひどい目にあわされた人々が数多く存在した。そうした人々に光があてられることは、これまでの日本ではあまりなかったのだったが、大林はこの映画を通じて、日本人にソ寇の不条理さを訴えたかったのだろう。ソ連が対日侵略を始めたのは昭和20年の8月8日であり、8月15日以降も侵略をやめず、樺太、千島などの占領が完了した9月5日になって、ようやく日ソ戦争が完全に終結した。この終戦のどさくさのなかで、多くの日本人が、ソ連側から理不尽な攻撃を受けたわけだが、この映画のなかの人びともその犠牲者だったということになっている。

映画の主人公は八十過ぎの老人である。この老人が息を引き取る。老人には四人の孫と一人のひ孫がおり、それらが集まって来て葬儀を執り行う。葬儀は、初七日をへて四十九日まで続く。その間に、孫たちの回想を通じて、老人の生前の生き方が伝わって来る。その場に、一人の謎の女が加わる。この女は、16歳の時に老人の運営する医院に看護婦がわりにやとわれ、やがて老人の身辺の世話をするようになる。ところが、この女は、実は既に死んでいて、その幽霊が老人のところに現われたのだということが明らかにされる。しかも女を老人のもとへ呼び寄せたのは、老人自身だったというのだ。

そんなわけで、この映画は怪談仕立てにもなっていて、その点が面白いのだが、もっと面白いのは、幽霊に脚が生えて、この世の人間になりきってしまっていることだ。この幽霊を、老人とともに住んでいた年少の孫たちは、「かあちゃん」と呼んでいたのだし、ほかのふたりの孫も、一目を置いている。この孫たちの両親はとっくの昔に死んでいることになっているのだが、なぜかこの老人には、結婚していた形跡がないのである。そこもまた怪談に近い。

映画は、十五の挿話の組合せという形をとっている。その組み合わせの合わせ目に、フェリーニの「8 1/2」のラストシーンを思わせる音楽隊の行進が出て来て、雰囲気を盛り上げるのだが、これは物語の進行にはほとんど関係がない。あくまでも雰囲気の盛り上げ役だ。こうした装置を施すことによって大林は、映画がとかく説教調に陥りやすい弊害を和らげようとしている。というのもこの映画は、戦争についてのこだわりが随所で、登場人物たちの口を通じて語られるのだが、それが、聞く者の耳には、いささか愚痴っぽく聞こえるわけなのだ。

ともあれ、この映画には、大林宣彦らしさがよく現われている。怪談仕立ては初期の作品からあったものだし、何といっても、映像の美しさに洗練が加わっている。三時間近い長さで、緊張が緩みがちのところは、フェリーニばりの演出で趣向を凝らすといった具合で、細部までよく計算されている。






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