饗宴読解その四

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アリストパネスが話し終えると、まだ話していない者は、ソクラテスとホスト役のアガトンだけとなった。そこでアガトンがソクラテスに敬意を表して、先に話すことになった。アガトンは、さすがに戯曲大会で優勝しただけあって、見事な話しぶりを披露した。彼は、他の人びとがエロースをたたえると言いながら実際はエロースその神自身をたたえず、エロースが人間にもたらす幸福を讃嘆したに過ぎないと言った。そして、自分はエロースを真にたたえるために、第一にエロース自身いかなる神であるかについて、第二にその数々の贈り物について、たたえたいと宣言する。

まず、エロースはどのような神であるか。神とはみな幸福であるが、なかでもエロースはもっとも幸福な神である。何故ならエロースは、神々の中で一番美しく、一番高貴であるから。パイドロスはエロースを最も古い神であると言ったが、自分はそれには同意できない。エロースはもっとも若いと自分は思っている。しかも永遠に若いのだ。エロースは永遠の若者であり、華奢な体の持ち主である。華奢であることは身軽であることゆえ、どんなところにも住まうことができる。人間の心にも当然住まうことができるわけで、したがってエロースは、すべての魂の中に人に気づかれずに入りこみ、また出て行くということもできるのである。

つぎにエロースは、正義の美徳を持っている。エロースは、神との関係においても人間との関係においても、不正を加えることもなく、また不正を加えられることもない。こうした正義の徳に加え、エロースには慎みの徳もある。慎み深いがゆえにエロースは、快楽や欲望を支配することができる。

勇気に関しては、エロースは、アレスといえども敵し得ない。アレスとは戦の神であるが、そのアレスでさえかなわない程の勇気をエロースは持っているのである。

エロースはまた、智慧の徳にもすぐれている。その智慧で以て、どんな人でも詩人にしてやることができるし、芸術に関する創作全般にすぐれた技量を発揮する。技術の行使という点では、この神の教えほど有益なものはない。アポロンが弓術や医術や卜占術を発明したのも、エロースに導かれてのことだったのだ。

こんな具合にエロースは、その優れた徳によって、神々のことを万事整え秩序立てられたのであり、エロースが生まれる前は、アナンケの支配のゆえに、たくさんの恐ろしいことが神々におこっていたのである。それゆえエロースは、「人々のうちには平和を、海原には凪と、無風を、風のために臥し寝を、また憂いのうちには眠りを」もたらすものなのである。

そんなエロースが我々人間に授けてくれる贈り物は、我々人間が互いに同胞であるという気持ちとか、温和な感情、好意、仁慈といったものである。エロースの贈り物は貴重な宝なのであり、華奢、繊細、優雅、優美、憧憬、切望といったものである。だからして我々人間は、エロースに感謝して、「この神にみごとな賛歌を捧げながらその後にしたがわなければならない」のである。

このようにアガトンは話したのであった。すると満座のものがアガトンの話しぶりを褒めて、「なんと本人にもかの神にも似つかわしいものとばかり、讃嘆の叫び声」をあげた。ソクラテスも、自分の予言通りの内容だったと感心したのだが、その予言とは、「アガトンは全く巧みな話をするだろう。そしてぼくは途方に暮れることだろう」というものだった。そのうえソクラテスは、ゴルギアスを思い出してしまい、そのおかげで「言葉どおりホメロスのうたっているような目にあった」と言った。つまりアガトンは、話の最中に言論の雄ゴルギアスの首を投げつけて、自分を石にしてしまうのではないかと恐れたというのだ。ゴルギアスはソフィストの名だが、ソクラテスは名前の類似から、それをゴルゴンに結びつけたわけだ。

ソクラテスはこう言ってアガトンを褒めたうえで、いよいよ自分の話を始めるのであるが、その前に二三予備的な確認をした。まずソクラテスは、アガトンの話の組み立てかたがよかったとあらためて褒めた。第一にエロースがいかなるものであるかを示し、その後でその神の働きについて述べたわけだが、それは他の連中の考え及ばなかったことで、その話しぶりを通じて、我々はエロースがいかなるものであるかを確認したうえで、その働きについて知ることができた。そうソクラテスは褒めたうえで、アガトンに議論を吹きかけるのだ。

その議論とは、エロースとはいかなるものかについてのものであった。つまりソクラテスは、その議論を通じて、アガトンとは違ったふうにエロースを定義しようというのである。ということは、ソクラテスは、あれだけ褒めたにかかわらず、アガトンによるエロースの定義に満足していないわけなのである。

ソクラテスはエロースを恋であると前提したうえで、それが何ものへの恋でもないものではなく、ある者への恋であることをアガトンに確認させる。あるものへの恋であるということは、そのあるもの、つまり恋の対象になっているものを欲求するのである。ところが欲求するものは、自分に欠けているものを欲求するのである。何故なら、欲求する者は、人間の本性上、自分の持っている者を欲求するはずがなく、自分に欠けているものを欲しがるからだ。

ところで、エロースが欲求するものは、美しいものである。つまりエロースは美への恋なのである。そうだとすると、エロースは美を欠き、美を持っていないということになる。しかしそれは背理ではないだろうか。というのも我々は、エロースは美そのものと考えているからだ。それなのに、我々は、エロースとは美への欲求であるからして、エロースには美が欠けているという判断をすることになった。これはどういうわけでそうなったのか。

美についてだけではない、よきことについても同じことが言える。エロースはよきものへの欲求であるが、そうだとすれば、エロース自身はよきものに欠けているということになる。これも我々の常識に反した不都合なことだ。

こうソクラテスが畳みかけると、アガトンは途方に暮れてしまうのだが、そんなアガトンに対してソクラテスは激励の言葉をかける。「親愛なアガトン、反駁できないのは実に真理に対してなのだ。ソクラテス相手なら、少しもむつかしいことではないからね」と言って。こう言いながらソクラテスは、エロースの本質的な定義にとりかかって行くわけである。

とまれ以上の議論には、なにやら落とし穴がひそんでいるようにも思える。というのは、ソクラテスは、エロースを恋として定義したわけだが、その恋としてのエロースと神としてのエロースとの関係に不明瞭なものがある。ソクラテスの議論は、人間を恋する主体として、その恋を定義しているわけだが、その恋がいつの間にか、神としてのエロースとごちゃまぜなまま同一視されている。そこから上述のような背理が生じて来る、というふうに見えるのである。






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