テアイテトス読解その二

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ソクラテスはテアイテトスに向かっていう。君のことをこのテオドロスがたいそう褒めているが、君が果たしてその通り素晴らしい少年なのか、確かめさせてくれたまえ、どうか期待を裏切らないでほしい、といった具合の言葉だ。するとテアイテトスは、テオドロスのいったことは冗談かもしれませんと謙遜しながら、ソクラテスの問いかけに真面目に答えていくのだ。

まずソクラテスは、テアイテトスに向かって、テオドロスから何を学んでいるのかについて聞く。テアイテトスは、幾何学とか、天文、音律、算術などを学んでいると認める。するとソクラテスは、その学ぶということに着目して、議論のとっかかりにする。学ぶというのは、その学ぶことに関して智者になることだと思うが、智者が智者であるのは何はさておき知があるからではないか。しかして知は知識と異なるものではなかろう。そこで僕としては、この知識というものについて、それが何であるかについて明らかにしたい。そう言ってソクラテスは、知識とは何か、をテーマにした議論をテアイテトスとの間で繰り広げていくのである。

知識とは何か、と問いを投げかけられてテアイテトスは、とりあえず、テオドロスのところで学んだ幾何学のこととか、靴作りなどの職人が心得ている技術などを知識の例としてあげる。靴作りの職人の技術は履物製造の技術ということになるねとソクラテスは言って、木工製造とはほかの技術にもあてはまるとしながら、自分が知りたいのはそんなことではない、知識の数とか具体的な例とかではなく、知識をそれ自体として、一体何であるか知りたいのだという。たとえば、泥土の何であるかを答える場合、陶師のつかう泥土がそれであるとか、竈師の使う泥土がそれであるとか答えずに、「土が水にまざると泥土になる」というような具合に答えてもらいたい。知識が何かと聞かれて、何か技術の名前を答えるのは笑止だと言うのである。

そう言われたテアイテトスは、自分が学んだ幾何学を例にとって、知識が何かについて考えようとする。平方根について考える時、人は3平方尺の正方形の一片は√3であるといい、5平方尺の平方根を√5であるというが、これを一般化すると、正方形の一片の長さはその面積の平方根であるという言い方になる。こんな具合に一般化して言うのは、ほかの場合にもあてはまると思うのですが、これをソクラテスの問いに適用するのはむつかしい、知識とは何かという問いに関しては、平方根を定義するようなわけにはいかないようです、とテアイテトスは言うのだ。

するとソクラテスは、そう悲観する必要はない、いまの君の言論を手掛かりにして、知識とはなにか、という問いに迫ってみようではないか、と提案する。しかしテアイテトスはあいかわらず自信なげな様子で、ソクラテスの問いのことは聞いていましたので、いままでもそれを答えられるよう努力してみましかが、どうもうまくいきませんでした、と言う。それに対してソクラテスは、僕が手伝ってやるから、君の言論をつぶさに検討し、君の腹の中にあるものを生み出させてやろうじゃないかと誘う。腹の中にあるものとは、智慧の胎児のようなものという意味だ。それをうまい具合に出産させてやれば、知識とはなにか、という問いへの答えが見つかるかもしれない。

ここでソクラテスは、有名な産婆術の比喩を披露する。自分自身は何ものも生まないが、人の出産を手伝って、子を生ませてやるのが産婆の役目だが、それと同じように、自分も何も生むものは無いが、他人の腹の中にあるものを出産させてやることはできる、というような話である。

ソクラテスは、自分の母親パイナレテが優れた産婆であったことを自慢げに紹介する。産婆というものは、自分では妊娠や出産はできない。他人の出産を手伝ってやるのが仕事である。しかしそのためには、妊娠や出産についての知識や技能が必要だ。したがって産婆になる女は、かつて妊娠や出産を体験し、いまはそれをしなくなった女がふさわしいのである。

産婆にはまた、別のいわれもある。産婆の守護神はアルテミスであるが、アポロンの姉であるこの女神は、自分では子を生まないが、母がアポロンを出産するときに手助けをしてあげた。アルテミス自身は石女ではなかったが、なぜか自分では子を生まずに、人の出産を手伝うようになったのである。そのアルテミスに似て、自分ではもはや子を生まなくなった女を、その経験を生かせるかたちで、産婆に起用しているのである。産婆はまた、子を生むのを助けるだけではない、「いかなる女はいなかる男と一緒になって最良の子どもを生むべきかということを知ることにおいて言わば全知なるものであるから、結婚媒介者としても決してばかにできない」。もっとも結婚媒介によって「とりもち」と非難される場合もあるから、産婆のなかにはそれを避ける者もいる。

産婆はまた、生まれてきた子どもが育てるのに値するものか、それともまともに育つ見込みがないから遺棄すべきなのか、そのどちらかを見分ける能力も持っている。つまり産婆とは、妊婦と生まれてくる子どもについて、誰よりもよく知っているのである。

ソクラテスは自分自身をそんな産婆に譬えるのだ。譬えるというより、自分も又産婆のようなものだと言うのである。ただし、女の産婆が女の出産を助けるのに対して、自分が助けるのは男である、とソクラテスは言うのだ。自分のすることは、「男たちのために取り上げの役をつとめるのであって、女たちのためでないということ。しかもその精神の産をみとるのであって、肉体のをではないということがあるのではあるが、しかし、このほかに、僕たちの技術には、一番大事なことでこういうのが含まれている。すなわち当の青年が思考を働かして分娩したところのものが似非物や偽物であるか、それとも正物であり真物であるかを百万検査するということができるというのである」

産婆とは自分では産めない者である。産むべきものを持っていないからだ。男の場合にそれを当てはめれば、ソクラテスは男として、自分自身ではなにも生むべきものを持たないことを意味する。その場合にソクラテスが生むべきものと言っているのは知識のことらしいから、ソクラテスは自分では何等の知識も持たないと認めているわけだ。ソクラテスはそんな自分を次のようにいう、「僕は取り上げの役の方をしなければならんように神が定め給うているのだ。そして生むことはしないようにこれを封じてしまわれたのだ。だから実際のところ、僕自身ちっとも智慧のある者なんかではないし、また僕には、僕自身の精神から出生したというもので、そんな智慧のある発見は何もないのだ」

そう自分自身を紹介したうえでソクラテスは、テアイテトスに向かって、君には生むべきものがあるようだから、その出産を手伝ってやろうと言うのである。「つまり君は、君自身も考えている通り、何か生み出したいものをお腹にもっていて、それで陣痛を感じているのではないかとにらんだからなのだ。そういう次第だから、僕に向かっては、僕は産婆のせがれで、自分も産婆の仕事をする者なんだという考えで向かってきてくれたまえ」、そうソクラテスはいって、テアイテトスに議論を吹きかけるのであるが、それはテアイテトスが生むべきものを持っていれば、それが生まれてくるのを手伝ってやれるし、もしそうでなかったなら、生まれてこないか、あるいは流産するかのいづれかと、値を踏んでいるのであろう。






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