やまゆり園事件は現代日本を映す鏡

| コメント(1)
やまゆり園事件は、障害者は生きる価値がないという身勝手な思いが引き起こしたといわれ、その異常さが人々を不気味にさせたものだが、実はそんなに異常な出来事ではなく、ある意味現代日本に蔓延している価値観を反映したものだと言えなくもない。それは、新自由主義的な発想にもとづく格差社会容認論だ。格差を容認する思想は、人間を勝ち組と負け組にわけ、勝ち組は努力したのだから報われて当然、負け組は努力が足りないから自業自得だ、というふうに発想する。その発想が極端化すると、障害者のような役に立たない人には生きる価値がないという考えにつながる。

こうした風潮に対して、小説家の平野啓一郎が警鐘を鳴らしている。中央公論の最新号(2020年4月号)に寄せた「文学は何の役に立つのか?」という小文の中で平野は、21世紀に入ってから日本では格差社会論が広がったと指摘している。最初は勝ち組・負け組という枠組みのなかで、片山さつき的な「努力している人が報われないのはおかしい」という理屈で、格差を容認する考えが広まった。その当初は、自己責任が強調され、負け組は自己責任が足りないと言って放置されていたものだったが、それが3.11以降は、ある種のナショナリズムが高揚し、国の財政問題に敏感な雰囲気が生まれた。そういう風潮のもとで、予算の使い方に意識的になって、社会の中の弱い人に対して、「あんな奴らに金を使うべきじゃない」とバッシングするようになった。弱者に対して、「冷たい否定」から「熱い否定」に変わって来たというのである。そうした傾向の行き着く先として、やまゆり事件があった、といいたいようなのである。

平野はこういう風潮を、新自由主義というよりは全体主義的だと言っている。全体主義が高じると、政府による国民の監視が強まる。その監視を支えているのは、個人の自由よりも国家の財政を優先する考え方だ。たとえば喫煙についていえば、かつては個人の選択の問題として放置されていたものが、いまでは、「煙草を吸って癌になった奴の医療費を、なんで俺たちの税金から払わなくちゃいけないんだ」というふうに変わって来た。そういう風潮が、国民一人一人の行動を監視するように働いてきたというのである。

これはコスト管理の観点から国民の行動への制約が強まることの指摘だが、最近はそれにリスク管理の視点が加わったという。セキュリティ強化という名目で、町中に監視カメラが張り巡らされ、人びとの行動を監視するようになったということだろう。

平野はまた、今問題になっている徴用工について言及している。徴用工についての判決文を読むと、一人の人間として生きてきたそれら徴用工の生身の姿が浮かび上がって来る。すると、それら徴用工を、日韓の政治的対立の文脈のなかで、「元徴用工」というカテゴリーだけで取りあげるだけではだめで、一個人としての実感をもたなければならないと思えて来る。その上で平野は、「やはりその人たちを足蹴にするようなことをしてはいけないと強く思いました」と言っている。平野は、石牟礼道子とか大岡昇平とか、「国家権力や大企業のような大きな権力に人生を踏みにじられ、翻弄された個人の物語を読んできた」のだったが、それらの小説の主人公が経験したことと、徴用工が体験したことには連続性がある、というのである。





コメント(1)

やまゆり園事件は現代日本を映す鏡によせて

これまでこの日本の政治と社会についてのブログへのコメントはきりがなくなると思い意識して避けてきましたが、やはり私も少しコメントを寄せたくなりました。
このブログはほぼ全面的に同感です。特に以下の背景についてですが、いわゆる新自由主義(全体主義のようですね、うまい表現です)の正当性を無理やり挙げての推進です。
1)日本は米国の同盟国では突出して、すべてに無条件で要望に従うかのような対応をしている。
2)世論向けには米国の顔をたて、自主的判断であることを屁理屈ととれるような言い訳をしている。
3)経済政策ではまず軍事予算面にあっても、米国の望むオスプレイ等の兵器購入を率先導入している、実は隠しているわけではないが意図的に議論にならないようにしている?
4)米国方式の各種自由化政策を積極的に導入し、大店法、派遣業種の拡大等による地方の商店街シャッター通り化、田舎も個人経営小売店の壊滅的な破壊。(もちろん中には少しは良い政策もあるが。)
5)低賃金派遣社員比率のあらゆる大企業への開放による、20年前には日本は中流社会といわれていた状況が消滅し、代わりにパートタイム、派遣社員激増による年間所得ベースでの格差社会の発生。(弊社も同じ)

いつまで日米安保至上主義で日本が生きるのか、世界の状況は大きく変わっているが、特に中国の軍事力、経済力での世界進出。ロシアの不気味さ、イスラムの今後の世界政治への影響等あります。日本はこの数年思いやり、おもてなしの大切さをアピールして観光業界は成長し平和前提の社会運営をしています。国力からしても、平和をいかに担保するのかを恒常的にも政策的にも国論にあげることが必要な段階にあるのではないかと思います。併せて自主防衛と核の傘の関係を世界情勢の激変を踏まえて改めて取り上げる必要があるかと思います。この話になると憲法9条死守だとかで議論にならず入り口で止まる状況は、本当に情けないと思っています。

コメントする

最近のコメント

アーカイブ