エピクロスの自然観

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エピクロスの自然観、というか世界とか宇宙についての考えは、原子論に基いている。世界とか宇宙とかは、物体とそれを入れる空虚からなっている。物体は空虚がなければ存在する余地がないからである。しかして物体は、究極的には原子に還元できる。原子には色々な種類があって、それらが様々に結びつくことで、我々が見ているような世界が形成される。その我々の見ているところの世界は、無限な宇宙の有限な一部である。無限なというわけは、空虚には端がないからである。だから宇宙は無定形、無限定というほかはない。その無定形で無限な宇宙の一部として我々の生きている世界があるとエピクロスは考えるのである。

では、その宇宙はどのようにしてできたのか。それについてエピクロスは直接的には言及していないが、宇宙は無限なものだと言っていることからすると、そもそもの始まりは想定していなかったと思える。始まりがあるものは、無限とはいわれないからだ。その点では、エピクロスの宇宙観は、キリスト教的な宇宙観とは全く異なる。キリスト教的な宇宙観は、セム的な一神教を前提にしたものだが、エピクロスはギリシャ人として、そうした考えを持たなかった。宇宙は神によって創造されたのではなく、なんとなく自然に存在しているのである。その辺は、我々日本人の考え方に似ている。我々日本人の祖先たちも、宇宙に始まりがあるとは考えなかった。丸山真男が指摘しているように、自然としての宇宙は、なんとなく存在し、なんとなく成り行くものと思念されていたのである。

エピクロスは、さまざまな自然現象は、色々な具合に説明できるといっている。ことがらが生じる原因を無理に一つに絞る必要はない。ものごとの真偽を判断する根拠は、エピクロスによれば、感覚である。だから感覚に合致する限りにおいて、さまざまに説明することができる。しかし神話によって説明することは避けなければならない。神話によって説明するとは、キリスト教徒が世界を神が創造したものだというようなやり方を意味する。神を説明の原理として持ち出すのは、なにも説明していないことと同じだというわけである。そういう点ではエピクロスの考え方は、地に足がついた堅実なものだといえよう。

キリスト教徒は、神が無から世界を創造したと考えている。その神は世界が生じる以前からどこかに存在したのであろう。でなければ世界を無から創造することはできないからだ。だがそうした議論は、神が存在するのは、世界の内側か、それとも世界の外側か、という議論に発展する。それは七面倒くさいものになりがちだ。なぜなら神が世界の外側に存在していたものならば、その外側はどのようなものかという疑問が生じるし、逆に世界の内側に存在していたものならば、神が世界を無から創造したとはいえないからだ。

こうした諸々の疑問に対しては、エピクロスはごく常識的に答える。あらぬものからは何ものも生じない、というのである。つまり無からは何ものも生じない。無から世界が創造されるということはありえない。我々が新たに生まれたと思っているものはすべて、無から生じたのではなく、有が別の有へと形を変えたものである。つまり原子の組合せが異なるように変化したに過ぎない。宇宙というのは、こうした生成の無限の繰り返しに過ぎないのである。

エピクロスにはするどい時間意識はみられないようだ。だから有から別の有への生成転化のプロセスを、時間の見地から展開することはしなかった。もしそういう問題意識に立っていたら、おそらく輪廻転生のような考え方にゆきついたのではないか。輪廻転生は仏教やインド土着宗教の考え方だが、それは宇宙を無限で始まりもなく終りもないとする考え方である。始まりもなく終りもなければ、永遠に生々流転を繰り返すと考えるのが自然である。ニーチェはエピクロスの後継者といえるが、かれの場合には、宇宙の問題に時間意識を持ちこんで、同一物の永劫回帰の思想を打ち出した。永劫回帰は、永遠の輪廻転生と似たような観念だ。

輪廻転生の思想は、我々日本人にも見られたものである。明確な形での輪廻転生の思想は仏教を通じて学んだのだったが、それを身に着いたものにしたのは、日本人自身のうちにそうした考えに馴染みやすいものがあったからではないか。先ほど触れたように、我々日本人の祖先は、世界をなんとなく存在し、なんとなく成り行くものだと考えていたが、そうした考えが、同じことの繰り返しである輪廻転生と結びつきやすいのは自然だといえよう。

輪廻転生の思想は、円環的な時間概念と結びついている。円環のイメージは、無限の繰り返しを意味することができる。これに対してキリスト教の時間は直線的なものだ。直線には両端がある。つまり始まりと終わりを持った有限な閉じられた存在として世界を見るわけである。

エピクロスにとっては、人間もまた原子からできている点ではほかの存在者とかわるところはない。人間の誕生は一定の原子が結びついた結果であるし、人間の死とは原子が解体して霧散することを意味する。我々にとって死は避けられないものだが、死を恐れることは無用だ。そうエピクロスは言って、死についての、あの名高い説を展開して見せるのである。






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