シオニズム:イスラエルとパレスチナ

| コメント(0)
イスラエル国家の起源はシオニズムにある。シオニズムとは、エルサレムの地にユダヤ人の国家を作ろう、あるいは復活させようという運動である。この運動を組織的に展開したのは、イスラエル国家建設の父と呼ばれているテオドール・ヘルツルである。ヘルツルはオーストリア人であるが、新聞記者としてパリに駐在していた折に、ドレフュース事件を目撃し、大きな衝撃を受けた。ドレフュースは、フランス軍に忠誠を誓っていたユダヤ人だったが、人種差別の犠牲者になるかたちで政治的な迫害を受けた。スパイ容疑で逮捕されたのである。この事件が教訓になって、ヘルツルはユダヤ人国家建設の必要性を広く訴えるようになる。その主張がシオニズムに集約されていくわけである。

その頃のヨーロッパにおけるユダヤ人社会の基本的な姿勢は、ヨーロッパ諸国の国民として溶け込む、あるいは同化しようというものだった。その背景には、フランスをはじめとしたユダヤ人解放の動きがあったし、また、ユダヤ人に対する差別もそんなにひどくはないといった事情があった。だからユダヤ人は、ヨーロッパ諸国の国民に同化することに、ある程度楽天的でありえたのだ。ところが、ドレフュース事件が、そうした楽天性に疑問を投げつけた。ユダヤ人は、自らに対する厳しい差別を思い知ることになったのである。

そうなったことには、それなりの背景がある。ハンア・アーレントの研究によれば、ヨーロッパ諸国でユダヤ人差別が厳しくなったのは、19世紀以降であり、その背景には、各国で国民国家形成にともなうナショナリズムの台頭があった。ドイツやイタリアが国民国家を形成するのは、19世紀の三分の二を過ぎた頃で、その頃から全ヨーロッパ規模で、ユダヤ人差別あるいは反ユダヤ主義が吹き荒れるようになったのである。ドレフュース事件は、その反ユダヤ主義を象徴する出来事だった。

ヘルツルは、こうした反ユダヤ主義に直面して、ユダヤ人の民族としてのよりどころを求める必要性を痛感し、ユダヤ人国家の建設を目指した。それがシオニズムの運動となるわけである。ヘルツルは、ヨーロッパ諸国の理解を求めながら、ユダヤ人国家建設に向けて立ち上がるのであるが、その運動の目的は、地球のどこかにユダヤ人国家を作るということにあり、その場所としては、必ずしもエルサレムの地にこだわっていたわけでもなかった。アメリカの一角も選択肢の一つに含まれていた。

ヘルツルの動きとは別に、ロシアのユダヤ人たちが、アメリカやパレスチナに大規模な移動をしていたという事情もあった。かれらの集団移住を促したのは、ロシア国内におけるポグロムの勃発である。ポグロムとは、ユダヤ人を標的にした集団的な迫害行為をさし、19世紀後半にはリトアニア公国の領域で大規模なポグロムが発生したほか、1880年代初頭には、ロシアでも大規模なポグロムが発生した。そこで身の危険を感じたユダヤ人は、国外脱出をせざるをえなくされたのであるが、その脱出先として、アメリカとパレスチナが選ばれたのである。大部分のユダヤ人はアメリカを選び、一部がパレスチナに向った。ミュージカル「屋根の上のバイオリン」は、その様子をテーマにしたものである。追放されたユダヤ人が、脱出先をアメリカにするかパレスチナにするか迷うさまが描かれている。このときに、パレスチナに移住した人々の動きを、ヘルツルのシオニズムと区別して、実践的シオニズムという。それに対してヘルツルのシオニズムは政治的シオニズムと呼ばれる。ともあれ、この二つの動きが合体するかたちで、パレスチナへのユダヤ人の移住が始まったわけである。

パレスチナには、シオニズムの波が押し寄せてくる前から、土着のユダヤ人が住んでいた。パレスチナはオスマン帝国の領土であったが、オスマン帝国は民族間を差別しない方針をとり、アラブ人とユダヤ人は平和に共存していたといわれる。ユダヤ人は、パレスチナ以外のオスマン帝国領にもかなりの数が住んでいた。それらのユダヤ人を、オスマン帝国は差別せずに、かえって保護する政策をとっていたのである。そういうわけであるから、シオニズムの最初の波がパレスチナに向った時には、ユダヤ人はたいした軋轢もなく迎えられた。規模が小さい限りは、既存の秩序のなかに吸収することができたからである。実際ユダヤ人の数は、そう大きな割合を占めるまでにはいかなかった。第一次世界大戦がはじまった時点での、パレスチナにおけるユダヤ人の割合は、一割にも満たなかった。かれらは、金を払ってパレスチナ人から土地を買い、そこに身を寄せ合いながら住み始めたのである。ちなみに、シオニズムの波が押し寄せる以前のパレスチナにおけるユダヤ人の数は、大きく見積もっても2万5千人ほど、1914年には8万5千人ほどだった。

初期のシオニストたちの多くは、集団的な生活を選んだ。それは一種の社会主義といってよいほどだった。集合主義農場キブーツはその典型例だった。キブーツは、共同所有をベースにした集団的な生計単位である。この生計単位にあっては、所有が共有されるばかりでなく、労働も共同でなされ、家族生活にも共同的な色合いが強く見られた。子どもは特定家族だけのものではなく、キブーツ全体の宝だとされた。パレスチナのユダヤ人社会は、シオニズムのもとで、かなり社会主義的な生き方をしたのである。そんなことから、イスラエルが建国したあとまでも、社会主義の精神は強い影響力を持ち続けた。建国後、労働党が長らく政権を担当した背景には、そうした社会主義的メンタリティが働いていたのである。






コメントする

アーカイブ