エピクロス再論

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エピクロスは生涯に夥しい数の書物を著したといわれる。だが、そのほとんどが残っていない。わずかに残っているものが、日本語では岩波文庫で読むことができるが、それはディオゲネス・ラエルティオスのギリシャ哲学者列伝所収のエピクロスの部分に、いくらかの断片を併せたものである。ラエルティオスの列伝は、エピクロスに大きなページを割り当てており、エピクロスについての伝記的な記述と並んで、友人にあてた三通の手紙を載せている。その手紙に、エピクロスの思想が要領よく要約されているので、我々はそれを通じて、エピクロスの思想の輪郭を捉えることができるのである。

哲学史上エピクロスといえば、快楽主義の思想家として、禁欲主義を主張したストア派と対比させながら論じられることが多い。たしかにエピクロスの思想は、人間の快楽を重視している。西洋の哲学では、快楽を重んじる思想は異端の部類に近い扱いを受け、あまり評判はよくないのであるが、しかし強いインパクトを及ぼしてきたことも否めない。何故なら、人間というものは、快楽を無視しては理解できないからだ。そういう意味でエピクロスは、人間の本質を理解しようとする者にとって、避けることのできない重要な思想家だと言ってよい。

そんなエピクロスをフランスの哲学者ジル・ドクルーズは、スピノザやニーチェの系譜につながる思想家だと位置付けている。年代的にはエピクロスがもっとも古いので、かれをこの系譜の先駆者とするわけである。その系譜は、基本的には人間の快楽を肯定的に捉える学風だと特徴づけることができる。さらに詳細に特徴づけると、ドゥルーズがスピノザ論において展開した三つの概念をあげることができる。唯物論、無神論、反道徳主義である。この三つの概念をドゥルーズは、スピノザを特徴づけるものとして提示したのであるが、エピクロスとニーチェにもあてはまると言える。ニーチェはともかくとして、エピクロスにおいてこの三つの概念がどのように当てはまるのかを見てみたいと思う。

まず、唯物論。エピクロスは、原子論を展開したことで有名だが、彼の原子論は徹底していて、我々の世界を含む宇宙全体が、原子と空虚からできているとした。つまり宇宙とはとりもなおさず物質からなっているのである。かれによれば人間の精神さえもが微細な原子からできていて、思考のはたらきは原子の組みあわせとか運動変化によって生ずる現象ということになる。こうした徹底した唯物論は非常に珍しい。だからスピノザが現れるまで、哲学の現場では継子あつかいされていたわけだが、スピノザがそれを復活させたからといって、哲学の王道を歩むことはできなかった。

ついで、無神論。エピクロスはギリシャの神々を否定するようなことは言っていない。表向きは神々を尊重している。だから無神論とはいえないかといえば、どうもそうではない。かれが神々に言及する時は、神々を擬人化された理想として語っているのであって、つまり神々を理想的な人間、あるいは人間の理想的な姿として語っているのである。これは神々の人間化である。しかし人間化された神を、真の意味の神といえるのかどうか。むしろ神々の座に人間を置くものではないか。そういう意味ではソフィスティケートされた無神論といってよい。

三つ目は、反道徳主義。ここで反道徳主義というのは、道徳に反対するあるいは敵対するという意味ではない。道徳の要請を絶対視する道徳至上主義に対して、道徳の相対性を主張する立場のことである。道徳至上主義は、道徳の要請を客観的で絶対的なものとし、それに従うことは、我々人間に先天的に課された義務だというような見方をするが、実は道徳というものは、人間の社会生活を円滑にするために、人為的に定められた決め事に過ぎないと考えるような立場のことを、ここでは反道徳主義あるいは道徳相対主義と言う。そういう意味のことを、エピクロスは主張したのである。

エピクロスの道徳相対主義は、正義についての考え方によくあらわれている。正義は、それ自体で存する或るものではない、とエピクロスは言う。それは人間同士の関係において、互いに加害したり加害されたりしないことに関して結ばれる契約のようなものである。そうした契約に合致するものが正義なのであり、合致しないものが不正と呼ばれる。それゆえ不正は、それ自体が悪であるわけではない。そうした行為をすることで罰せられはしないかという気がかりから生じる恐怖の結果として悪なのである。

以上の三つの傾向がエピクロスの思想の特徴であると指摘できるのであるが、そうした主張の根底に、快楽についてのエピクロスの考えが働いているわけである。快楽というのは、すぐれて人間的な事象であるから、それを物事の見方の基本に置くことは、何事も人間中心に見ることを意味する。その人間中心主義が、神々との関係では無神論的な傾向を生み、道徳を相対的に見る傾向を生むわけである。また、エピクロスは人間を、精神的な存在としてよりは物質的なものとして見ていた。なにしろ人間の精神さえも、原子からできていると考えたくらいなのである。

快楽を重んじるといっても、いわゆる快楽至上主義ではない。その証拠にエピクロスは、性交をつまらぬこととしておるし、美食も勧めてはいない。むしろ質素な生活を高く評価している。エピクロスにとって、望むべき生き方とは、肉体の健康と精神の平静なのであるが、肉体の健康は適度の食事と運動によってもたらされるのであるし、精神の平静はたえまなき研究によってもたらされる。そんなわけで、具体的な生き方の問題になると、快楽至上ではなく禁欲を重んじることとなる。禁欲という点では、エピクロスはストア派とそんなに違わないのである。エピクロスは、わずかなもので満足するように、たびたび勧めている。

エピクロスが快楽を重視するのは、快楽が生きていることの始め(動機)であり終り(目的)であると考えるからだ。生きることそれ自体が好ましい、ともエピクロスはいっている。つまり生きることと快楽とは切っても切り離せない関係にあるというわけである。

これは余談になるが、エピクロスが男女の性交に冷淡なのは、なにか特別の事情があるからなのか。たとえばエピクロスが同性愛者だったとか。






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