マルクス、ユダヤ人を語る

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ユダヤ人についてのブルーノ・バウアーの侮蔑的な非難に対してマルクスは、ユダヤ人としての資格において反論するわけではない。バウアーはユダヤ人が解放されるためにはまずユダヤ教から解放されることが前提だと言っているが、これはユダヤ人の本質を宗教的な存在、つまりユダヤ教の信徒であることに求めているということだ。ところでそのユダヤ教とはいったい何ものなのか。その点についての解明、つまりユダヤ教の本質についての言明に、マルクスの現代社会についての認識が込められている。「ユダヤ人問題によせて」の後半部分は、そうしたマルクスの認識が展開されている部分である。

マルクスは言う、「ユダヤ教の現世的な基礎は何か? 実際的な欲求、私利である」。また、「ユダヤ人の世俗的な祭祀は何か? あくどい商売である。彼の世俗的な神は何か? 貨幣である」とも言う(引用は城塚登訳岩波文庫版「ユダヤ人問題によせて」から、以下同じ)。マルクスは更に、ハミルトン大佐の次のような文章を引用して、ユダヤ人のあくどさと抜け目なさを強調している。「マンモン(財貨の神)が彼らの偶像であり、彼らはこのマンモンを口であがめるだけではなく、心身のすべてをあげてあがめるのである。現世は、彼らの目には取引の場以外の何ものでもなく、彼らは、隣人よりも金持ちになることのほかには現世に何等の使命もないと確信している。あくどい商売が彼らの考えのすべてを支配し、商品交換が彼らの唯一の楽しみである。旅行する場合にも、彼らは、いわば商業道具と勘定場とを背負って歩きまわり、話といえば利息と利益のことだけである」

しかしこれは、ユダヤ人だけに認められる特徴ではないだろう。市民社会に生きる人間は、多かれ少なかれこうした特徴を帯びているものだ。だから、こうした特徴をあえてユダヤ的なものとするならば、近代市民社会の人間は多かれ少なかれユダヤ的なのだ。それゆえマルクスは、「市民社会はそれ自身の内臓から、たえずユダヤ人を生みだすのだ」と言うのである。ユダヤ教の基礎となっている「実際的な欲求、利己主義」は、市民社会そのものの基礎ともなっているというわけである。

ユダヤ教の精神は、近代市民社会の精神そのものである、ということもできる。近代市民社会とは貨幣が支配する世界であり、すべてが取引の対象とされる世界である。そこでは、「類的関係そのもの、男女の関係、等々もまた取引の対象となるのだ! 女性が掛け値をつけて売られるのである」。ここでマルクスが類的関係と言っているのは、人間同士の人間らしい関係ということである。そうしたものは本来取引の対象とされるべきものではない。ところが近代の市民社会においては、そうしたものまでが取引の対象となる。それはユダヤ教の精神が市民社会全体に浸透した結果なのである。

マルクスが近代市民社会と言っているのは、同時代のヨーロッパ社会のことである。それはキリスト教を原理としている。その「キリスト教はユダヤ教から発生した。それは再びユダヤ教の中へと解消した」。つまり近代市民社会は、貨幣をあがめ、取引に夢中になることを社会の原理にまで高めることで、ユダヤ教の精神に先祖返りしたということである。だがもともとキリスト教にはユダヤ教の母斑がついていたともいえる。「キリスト教徒は、そもそものはじめから、観想的なユダヤ人だったのであり、したがってユダヤ人は、実践的(実際的)なキリスト教徒なのであって、実践的キリスト教徒はふたたびユダヤ人となったのだ」

マルクスはこう言うことによって、ユダヤ人を侮蔑するキリスト教徒に向って、君もユダヤ人の仲間なのだと、皮肉っているのである。キリスト教とユダヤ教とは無縁なものではない。互いに引き付けあっている。「キリスト教はユダヤ教の崇高な思想であり、ユダヤ教はキリスト教の卑俗な適用である」。その卑俗な適用であるユダヤ教が、いまや「一般的支配の地位に達し、外化された人間、外化された自然を、譲渡できるもの、売却できるもの、利己的な欲求に隷従し、あくどい商売の餌食となるものにすることができたのである」

つまり近代市民社会は、ユダヤ教の精神に染まることで、人間が人間を商売の対象にし、ほかの人間を自分の利己的な欲望の餌食にすることを、全社会的な規模において実現したとマルクスは言いたいのであろう。キリスト教にもそうした利己主義の要素がなかったわけではない。だがユダヤ教は、そうした利己主義を全面的に推奨する。キリスト教の利己主義を浄福利己主義というならば、ユダヤ教の利己主義は肉体利己主義である。しかして、「キリスト教の浄福利己主義は、完全に実践された場合には、必然的にユダヤ教の肉体利己主義に一変し、天上の欲求は地上の欲求に、主観主義は私利に一変する」

以上のようにユダヤ教及びユダヤ人を定式化したうえで、マルクスはそうしたあり方からの人間の開放を主張する。人間の開放はマルクスにとって、ユダヤ教的なものからの開放なのであり、そのユダヤ教的なものとは、近代市民社会を支配している貨幣崇拝だというわけである。貨幣崇拝がもたらすあくどい商売と人間による人間の利己的利用、それを廃棄することが解放の条件となる。つまり、ユダヤ的なものからの開放である。解放された暁には、ユダヤ人というものはありえないということになろう。マルクスは言う、「社会がユダヤ教の本質であるあくどい商売とその諸前提を廃棄することに成功するやいなや、ユダヤ人というものはありえないことになる。というのは、もはやユダヤ人の意識は何らの対象を持たなくなるからであり、ユダヤ教の主観的基礎である実際的欲求が人間化されてしまうからであり、人間の個人的・感性的あり方とその類的あり方との衝突が揚棄されてしまうからである」

かくして「ユダヤ人の社会的開放は、ユダヤ教からの社会の開放である」とマルクスは結論付けるのであるが、そう言うことによってマルクスは、人間同士の人間的なつながりの回復を強く目指しているというふうに我々には伝わってくる。マルクスが人間について「類的」という言葉を使うのは、人間本来のあり方という意味においてであり、その類的なあり方が疎外されている実情を揚棄することが、とりあえずの彼の思想的な目標となっているわけである。





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