大乗起信論を読む

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「大乗起信論」は大乗仏教の入門書として、また「大乗仏教の本義を説き示す、根源的な仏教解説書」として、日本では仏教者の間のみならず、仏教研究者の間でも重要視されてきた。鈴木大拙や井筒俊彦といった思想家たちも、「大乗起信論」から大きな影響を受けている。ところがその成立については、従来異説が並びとなえられて来た。一説には、起信論そのものがいうように、馬鳴菩薩が作り、新諦三蔵が訳したといい、異説には、これはインド人ではなく中国人が書いたものだという。馬鳴菩薩とは、紀元前後に活躍したインド人だと言われるが、その事跡をたどることはできないでいた。また、新諦菩薩は中国の南北朝時代の梁で活躍していたといわれる。その新諦菩薩が、馬鳴菩薩の書いた「大乗起信論」を、紀元六世紀ごろに中国語に訳したという見方が従来有力だったのだが、その見方を決定的に否定する研究が、近年、日本人によって発表された。仏教学者の大竹晋が、2017年に発表した「大乗起信論成立問題の研究」という本の中で、「大乗起信論」は、中国南北朝時代に存在していた中国人によって、中国語の先行文献をもとに、パッチワーク的につなぎあわせて作ったものだと証明したのである。仏教学者の佐々木閑によれば、この証明は反駁できないもので、将来にわたって定説となるだろうという。

大竹のこの研究によって、「大乗仏教の本義を説き示す、根源的な仏教解説書」としての大乗起信論の権威は揺らぐことになったが、しかしだからといって、仏教研究上の価値が全くなくなるというわけではないと思う。たしかに、歴史的な意味での根本性を主張することはできなくなるが、仏教の教義をコンパクトに解説しているという点では、いまもなお大きな意義を持ち続けているといえるのではないか。というものこの本は、いわゆる御経ではなく、論文であって、一部宗教的な色彩は有しているものの、あくまでも仏教の教義をわかりやすく解説しているところに意義を持つからである。だから仏教入門書としての「大乗起信論」の有用性は、依然色あせてはいないというべきである。

以下、「大乗起信論」を読み解いていきたいが、テクストに使った岩波文庫版は宇井伯寿の訓読と高崎直道の現代語訳を載せている。この二人はいずれも伝統的な考え方に立ち、インドの聖人が紀元前後に書いたものを中国の高僧が翻訳したと信じている。だから原文の読解や釈明もそうした立場からなされているのだが、それによって「大乗起信論」の解釈に大きなゆがみが出ていると考える必要はないと思うので、仏教の素人たる小生としては、かれらに全面的に依拠するかたちで読み進んでいきたいと思う(以下引用も本書による)。

「大乗起信論」は序文、正宗分、流通分からなっているが、序文と流通文は短い頌であり、実質は正宗分である。それは五段からなっている。すなわち、第一段因縁分、第二段立義分、第三段解釈分、第四段修業信心分、第五段勧修利益分である。因縁分は、本論をあらわす理由あるいは動機について記す。立義分は、本論の大綱を示す。解釈分は、大綱を敷衍したもので、大乗仏教の本義についての詳細な説明がなされる。分量的には全体の三分の二を占めている。修業信心分は、さとりを得るために必要な事柄について触れられる。勧修利益分は、大乗仏教を信じることで得られる利益について述べられる。

まず題名の「大乗起信論」という言葉であるが、これは、大乗仏教への信心を起させる論という意味である。大乗仏教の本義について理解してもらい、それを信心するように導くための論というわけである。

序文は、わずか六十字からなる頌で、三宝(仏法僧)に帰依し、大乗への正しい信心を起して、仏教の伝統を絶やさないようにすることが本論の目的だとする。この序文は、流通文とともに、後世に付加されたものと考えられている。

正宗分の冒頭にも序文のようなものが付されている。それには、摩訶衍への信心を起させるような教えを説明したいとある。摩訶衍とはサンスクリット語のマハーヤーナをそのまま漢字の音であらわしたもので、大きな(マハー)乗り物(ヤーナ)、すなわち大乗を意味する。

因縁分の因縁という言葉は、理由とか動機といった意味である。つまり因縁分では、本論執筆の動機が語られているわけである。その動機は、次の八つからなる。
人々があらゆる苦悩から解放され、究極の安楽(すなわち涅槃)を得られるようにすること。
如来の教えの根本義を解説して、人々が正しく理解して過たないようにさせること。
すでに修業を積んで善根が成熟した者たちに対しては、かれらが大乗の教えを身に着けて、不退転の信心が得られるようにすること。
修業が未熟で善根を積むこと少ない者たちに対しては、かれらが信心を起こし、それを完成すべくしむけること。
④の目的を果たすために、準備的な修行法(方便)を示して、悪行の障りを消し、善くその心を護って、無知と高慢を離れ、邪見の網から抜け出させるようにしむけること。
大乗修業の正道としての止観の修行法を提示して、無信心な凡夫たちや利他の実践につとめない二乗の修行者たちの心の欠陥を克服するようにしむけること。
止観の実践に堪えられないと思う心弱き人々に対して、ひたすらに阿弥陀仏を念ずるという方法を示し、そうすれば、その仏国土に往生して、必ず不退転の信心を得ることができると教えること。
この教えの実践から生じる利益を示し、修業を勧めること。

以上のうち、①から⑤までは「解釈分」において、⑥と⑦は「修業信心分」において、⑧は「勧修利益分」において、それぞれ詳細に語られる。

なお、「大乗起信論」を最も熱心に読むのは禅宗系統の人たちと言われるが、浄土宗系統の人たちも読むという。それは本論が阿弥陀仏の功徳を強調しているからであろう。禅宗が本論を重んじるのは、その世界観を重んじるからであり、浄土宗が本論を重んじるのは、阿弥陀仏による他力救済を主張しているからだと考えられる。





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