マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」

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マルクスの「ヘーゲル法哲学批判序説」といえば、次のような刺激的な一節が思い浮かぶ。「ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが人間にとって根本は、人間自身である」(城塚登訳、岩波文庫版から引用、以下同じ)。マルクスがこう言うわけは、キリスト教にせよ、ヘーゲルに代表される国家論にせよ、人間が脇へ追いやられ、人間が作ったもの、つまり宗教とか国家といったものが人間を支配している事態は倒錯しているのだと主張したいからだ。それ故、「宗教の批判は、人間が人間にとって最高の存在であるという考えでもって終わる」と言うのである。

人間が自分自身の作ったものによって支配される事態を、マルクスは人間の自己疎外と呼んでいる。この概念をマルクスは、フォイエルバッハから受け継いだ。フォイエルバッハはその著「キリスト教の本質」において、キリスト教は人間の作ったものだが、かえってその作られたものが人間に対して主人のように振る舞うという事態を指摘して、それは物事を転倒したものだと批判した。本来は主人であるはずの人間が、キリスト教にとっては僕と化す。これは本末転倒だとフォイエルバッハは言うのである。そうしたフォイエルバッハの思想を受け継ぐ形でマルクスは、ヘーゲルの国法論を批判し、それを通じて近代の市民社会、及び同時代のドイツを厳しく批判するわけである。その批判の行き着く先は、近代社会の否定であり、新しい時代への展望である。そしてその新しい時代の到来をリードする者はプロレタリアートであると結んでいる。マルクスにおいてプロレタリアートという言葉が前面に出て来るのは、この論文が初めてである。

フォイエルバッハの宗教論に敬意を表したのか、マルクスはこの論文を宗教の批判から始めている。その論調はフォイエルバッハらしさを感じさせるものだ。宗教は人間の自己疎外されたものをあらわしているとするところなどはフォイエルバッハと同じだ。だが、マルクスらしいところもある。たとえば次のような部分だ。「宗教上の悲惨は、現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨にたいする抗議でもある。宗教は、抑圧された生き物の嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である」

したがって、宗教を批判することは、宗教を必要とするような人間の状態を捨てるよう要求することを意味する。「民衆の幻想的な幸福である宗教を揚棄することは、民衆の現実的な幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてもつ幻想を捨てるよう要求することは、それらの幻想を必要とするような状態を捨てるよう要求することである」

つまり宗教の批判は現実の批判と直結しているわけだ。かくして「天国の批判は地上の批判と化し、宗教への批判は法への批判に、神学への批判は政治への批判に変化する」。このように言うことでマルクスは、宗教論から現実批判へと矛先を向けていくわけである。マルクスの現実批判の内実は、国家と政治の批判である。その批判をマルクスは、ヘーゲル法哲学の批判を通じて実行するというわけなのである。「ヘーゲル法哲学批判序説」と題したこの小論は、批判の本体に向けての、批判の方法論の明示といった位置づけで、ヘーゲル法哲学そのものへの批判は、別途草稿の形で残されているそうだ。

ヘーゲル法哲学の批判を通じてマルクスが目ざしたのは、近代市民社会の秘密の解明と、人間の真の意味での開放であるが、それについてマルクスは二段構えの態度をとっている。一方では、市民社会全体について目配せするとともに、他方では、ドイツ的な特殊性を考慮するというものである。というのも、ドイツは遅れて近代化したことから、英仏とは一概に同じ扱いができない。それゆえ、「ドイツは、まだ一度もヨーロッパ解放の水準に立たないうちに、いつか或る朝、ヨーロッパ没落の水準に身を置くことに」なりかねないのである。

マルクスはまず、英仏など先進市民社会における人間の開放について言及する。市民社会は諸階級に分裂した社会であるという認識が語られる。その諸階級のうちの一つの階級が、社会全体を代表し、それの普遍的代表者と感じられ認められるような一時期がある、そのような時期に、その階級が社会全体を変革するエネルギーを爆発させるというのがマルクスの見立てなのである。こうした見立ては、ブルジョワジーがフランス革命を主導したという歴史的な認識にもとづいている。

ところで、ドイツの場合はどうだ。ドイツはいまだフランス革命以前の状態にある。そこでドイツをフランス並みに変革するには、フランス革命を主導したブルジョワジーのような階級がドイツにも存在していることが必要となるはずだが、ドイツにはそのような階級は存在していない、というのがマルクスの見立てだ。マルクスは言う、「ドイツでは、いずれの特殊な階級にも、首尾一貫性、先鋭さ、勇気、そして社会の否定的代表者たちを特徴づける仮借のなさが欠けているだけではない。いずれの階層にも、国民の心とたとえ一瞬でも一体化するようなあの心の広さ、物質的な力に活を入れて政治的な力になるよう勇気づけるあの天分、我は無なり、されば一切たるべし、と不敵な言葉を投げつけるあの革命的な勇敢さも、同様に欠けている」

だがドイツといえども、変革されねばならない。その変革を果たしてどの階級が担うのか。それはプロレタリアート以外にはないというのがマルクスの主張なのだ。ドイツでは、ブルジョワジーによる市民革命をスルーして、いきなりプロレタリアートによる革命に邁進するしか道はないというのが、この時点でのマルクスの考えであったわけである。

そういうわけであるから、ドイツの革命は、全面的でかつ徹底的なものになるだろうとマルクスは予測するのだ。マルクスは言うのだ。「フランスでは、人は一切たらんとするためには、何ものかであれば足りる。ドイツでは、人は一切を放棄すべきでないとしたら、何ものかであることも許されない。フランスでは、部分的解放が全般的解放の基礎である。ドイツでは、全般的解放があらゆる部分的解放の不可欠の条件である」

その様な全面的解放の担い手になるのがプロレタリアートなのである。なぜならプロレタリアートは、「市民社会のいかなる階級でもないような市民社会の一階級、あらゆる身分の解消であるような一身分、その普遍的な苦難の故に普遍的な性格をもち、なにか特別の不正ではなく不正そのものを蒙っているがゆえにいかなる特別な権利をも要求しない一領域、もはや歴史的な権原ではなく、ただなお人間的な権原だけを拠点にすることができる一領域、ドイツの国家制度の諸帰結に一面的に対立するのではなく、それの諸前提に全面的に対立する一領域、そして結局のところ、社会の他のすべての領域から自分を解放し、それを通じて社会の他のすべての領域を解放することなしには、自分を解放できない一領域」だからである。





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