経済学・哲学草稿:マルクスの資本主義論

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「経済学・哲学草稿」は、マルクスの経済学研究の最初の成果である。もっともこれはマルクスの生前には出版されず、死後かなり経過した1932年に公開された。公開されるや大きな反響を呼び、いわゆる初期マルクス思想をめぐって、さまざまな研究を引き起こした。マルクスがこの草稿で追及しているのは、大きくわけて二つの事柄、一つは資本主義的生産関係の本質、とりわけ資本と労働との関係であり、もうひとつはヘーゲル弁証法の批判を通じて、弁証法を変革の原理にしようとする試みである。その文脈で、疎外とその克服が、否定の否定という言葉で語られるのである。

四つの草稿群からなっている。第一草稿は労賃、資本の利潤、地代についての考察と疎外された労働、第二草稿は私有財産の関係、第三草稿は資本主義についての雑多な論考及びヘーゲル弁証法の批判がテーマである。第四草稿は、ヘーゲル「精神現象学」最終章の要約である。

まず、第一草稿のうちの前半、労賃、資本の利潤、地代についての考察から見てみよう。労賃について、マルクスは資本との関係において考察する。というのも、労働者を雇うのは資本だからである。資本が労賃を払うが、その決定は、基本的には、資本によって決められる。「労働者は、資本家が儲けるさいには、必然的に儲けるとは限らないが、しかし資本家が損をするさいには、必然的に損をする」(城塚登外訳岩波文庫版、以下同じ)というわけである。その労賃にとって最低の水準、つまりどうしても必要な水準は、労働者の労働期間中の生活を維持することができるという線であり、せいぜい労働者が家族を扶養することができ、労働者という種族が死滅しないですむ水準である。この水準を下回ると、いずれ労働者という種族が存在しなくなるからだ。それは資本にとっても不都合なことに違いない。

問題なのは、労賃がこの最低の線になりがちだということだ。なりがちどころではない、アダム・スミスによれば、通常の労賃はこの最低の労賃に定まるはずだというのである。そのアダム・スミスのことをマルクスは、国民経済学のチャンピオンとみているが、それはスミスの主著のタイトル「諸国民の富」をもじったわけであろう。

マルクスはこのように確認することで、資本主義というものは、本来的な傾向として、労賃を最低の水準にとどめる、と指摘する。これは労働者にとっては耐えがたいことだ。労働者は、労賃を生きるための最低水準にされることで、自分の自己実現のための余裕をもてないどころか、動物的な境遇におとしめられるのであり、それは耐えがたい労働とあいまって、自分の人間性を否定されたような気持ちにかられる。その気持ちは否定的なものだが、その否定性が労働者を革命に駆り立てる、というふうにマルクスは考えるのである。マルクスの革命理論は、実に労働者の資本に対する絶望と反乱に根拠をおくわけである。

マルクスのこうした指摘は、その後の資本主義の歩みの中でも、基本的にはあてはまっているといえる。第二次大戦後を中心にした一時期、いわゆる福祉国家のモデルが受け入れられ、労働者の待遇がよくなったこともあるが、それはあくまで例外的な現象だ。福祉国家は、国民あげての総力戦争を遂行するうえでのやむにやまれぬ選択という面をもっていた。労働者を戦場に駆り立てるためには、労働者の(家族を含めた)生活に対する不安を解消してやる必要があった。そのため、労働者が死んでも家族が困らないようにする必要があったし、また労働者自身のモチベーションを高めるためにも、エクストラの収入を保障してやる必要があった。ところが、冷戦が終わり、総力戦争の可能性がなくなると、再び資本主義の論理が露骨に通るようになった。新自由主義と呼ばれるものである。新自由主義のもとで労働者の受け取る分け前は、生存ラインすれすれに引き下げられるようになっている。しかもその水準は、労働者という種族を再生産できない程の低い水準に切り下げられるまでに至っている。その結果、人口減少といった事態を招いているわけだ。特に日本ではその傾向が強い。日本の資本の貪欲さは、自分が成り立つ条件である労働者を消滅させにかかっているのである。

労働者を不幸にすることが資本主義の基本的な傾向だとマルクスはとらえるわけだが、そのことをスミスらの国民経済学もよく知っていた、ともいう。そうした社会が、つまり国民の大多数が苦しんでいる社会が、望ましくないのはいうまでもないが、それは資本主義の本質に根差したことなので、いかんともしがたい。資本主義によっては解決できないことがらなのである。つまり社会の不幸が資本主義の目的であり、資本主義の学問である国民経済学の前提でもあるわけだ。

資本についてマルクスは、それが基本的には蓄積された労働だと規定する一方で、資本相互の間の競争に着目する。競争が資本のもたらす利潤を平均化する。相対的に利潤を多くあげる分野には新規の参入が増え、それが利潤を平準化するのである。その平準化の働きがあるおかげで、本来利潤を生まない金融の分野でも利潤の分け前にあずかることができるのであるし、土地所有者も絶対地代という形で利潤の分け前にあずかれるとマルクスは考えるのである。要するに資本主義というのは、産業資本が生み出す利潤を、社会全体が分有する社会だということになる。マルクスはあくまでも産業資本を中心にして、資本主義経済の動きを分析するのである。

競争はまた独占を生みだすとマルクスはいう。なぜなら小規模生産に対する大規模生産の利益は明らかだからであり、その利益を追求する動きが、独占につながるのだ。独占状態が生じれば、利益は最大になるし、労賃は最低にできる。独占資本を前にしては、労働者は自分を安売りするほか、選択肢はないからだ。

地代についてのマルクスの貢献は、絶対地代が生じるメカニズムを明らかにしたことだ。リカードら国民経済学の地代論は、相対地代の発生メカニズムを主に論じたもので、そもそも地代のベースとなる絶対地代、あるいは最低の地代がどのようにして生じるのかについて、かならずしも明確な説明ができていなかった。マルクスは、産業資本が中心となって平均利潤率が生まれ、その平均利潤率が土地の生産物にも適用されることで、絶対地代が生じると説明したのである。

マルクスがこういうのは、資本主義のもとでは、農業も又資本主義化されると考えるからだ。農業も又一つの産業分野なのであって、工業と同じメカニズムにさらされるはずだ。そのなかでもっとも重要なのは、利潤の平均化ということである。農業だけが、全く異なった利潤を適用されるというわけにはいかない。だから工業をはじめとした全体の利潤が、農業にも適用される。その利率が絶対地代を形成するとマルクスは見るわけである。

こうした見方は、金融資本にも適用される。金融資本自体は一切生産物を生まない。だからそれ自身のうちから固有の利潤を生みだす余地はないわけだ。にも拘わらず利子という形で利潤を得るのは、社会全体の平均利潤が金融分野にも適用されるからである。金融分野は、社会全体が生み出した利潤の総体を再分配する過程で、それの配分にあずかるのである。

労働、資本、土地は、資本主義社会における産業の三つの構成要素である。土地は資本主義以前の封建的経済関係のもとでもあったわけだが、資本主義社会のもとでは資本主義的農業という形で現われる。その農業を含めた以上三つの要素の関係を考察することで、資本主義のメカニズムがよく見えて来ると、マルクスは考えたのである。





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