肌の隙間:瀬々敬久

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瀬々敬久は21世紀に入るとピンク映画から足を洗って普通の映画を作るようになったが、2004年に久しぶりにピンク映画を作った。「肌の隙間」である。これはたしかにピンク映画なのだが、その範疇にはおさまりきれない複雑なメッセージを含んでいた。それが話題を呼び、一般の映画館でも公開されたという、いわくつきの作品である。

知恵遅れと思われる女性と、その甥でやや発達障害を感じさせる青年との愛の触れ合いを描いた作品だ。二人は世間を憚って逃避行のような放浪を続ける。青年は彼女を叔母さんと呼んで、親族としての礼儀は失っていないのだが、そのうち叔母さんのほうから性的な誘惑を受けて、男女の仲になる。叔母さんは性欲が盛んで、自制できないのだ。そこで甥を相手にセックスに耽るのである。この映画がピンクなのは、彼らのセックスが主要な要素になっているからだ。

かれらが放浪している理由は、青年が自分の母親を殺したからだということになっている。そのことでかれらは指名手配されている。だから世間を憚らざるをえないわけだ。映画は、その二人がオートバイで逃げるシーンから始まるのだ。逃げる途中でオートバイが壊れ、拾ってもらったトラックの運転手に、叔母が強姦されそうになる。そこで二人は必死になって逃げる。叔母は、甥とのセックスは好むが、他人に体を許すことはいやなのだ。

そのうち、山のなかの一軒家を見つけて、そこに住みつくことになる。そこで二人はセックスにふける。ところがどういうわけか、叔母が青年の腹を包丁で刺し、青年は重体に陥る。そこで叔母は青年を担いで医者に連れて行こうとする。だが医者にはいかないで、浅草付近の隅田川の河川敷にやってくる。そこはホームレスのテント村になっていて、白髪頭のホームレスの男が青年の傷を手当してくれる。その代金替わりというわけか、男は叔母を強姦する。強姦された叔母は実に悲しそうな顔をするのだ。自分が招いた不幸だと観念しているからだろう。

そういうわけでこの映画は、セックスの意味について考えさせてくれる。セックスというのは、自分の意志から行うことに意味があるので、無理やりさせられるのは苦痛以外のなにものでもない。それ以上に、人間を快楽の道具として扱うもので、実に非人間的な行為である。そういうメッセージをこの映画は発している。それは強姦天国と言われ、女性の人権が日々踏みにじられている日本の実情に対する瀬々なりの告発とも受け取れる。

二人が支えあいながら、東京都心の大通り(駒形橋付近の江戸通り)をさまようところを映し出したラストシーンが実に印象的である。






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