ドレミファ娘の血は騒ぐ:黒沢清

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1985年の映画「ドレミファ娘の血は騒ぐ」は、黒沢清にとって商業映画第二作だ。一作目の「神田川淫乱戦争」はピンク映画だったが、「ドレミファ」もまた当初はピンク映画として構想されたということだ。そんなこともあって、露骨な性的描写が多い。若い男女のセックスとか、若い女のマスターベーションといった具合だ。

筋書は他愛ないもので、劇的な要素に乏しい。高校時代の同級生を追いかけて田舎から出てきた少女が、同級生が通っている大学の学生たちと付き合ううち、大学教授によって実験台にされ、裸にされたうえでけしからぬことをされるといった、ある種のサディズムをテーマにしている。それもサラリとした描き方なので、本格的なピンク映画ともいえないわけだ。

映画のおもしろさは、少女を始めとした若者たちの奇想天外ぶりだろう。かれらは心理学科の学生なのだが、たいした目的意識があるわけではなく、みな惰性で生きているように見える。惰性で生きているのは主人公の少女も同じで、彼女にも大した目的意識はない。訪ねてきた同級生が他の女とセックスしているところを見てげんなりするのだが、だからといってかれを諦め田舎に帰るわけではない。東京での生活はそれなりに面白いし、大学の研究テーマにも興味がある。彼女は学生ではないのだが、彼女を気に入った心理学の教授が彼女を聴講生のように扱うのである。

その心理学の教授を伊丹十三が演じている。伊丹はこのとき既に五十を過ぎていたが、なかなか若く見える。だから少女を裸にして、その股間を開いて覗き見るシーンも絵になる。年相応に老けていたら、老人の痴情にしか見えないだろう。その伊丹教授のいる大学がどこをモデルにしているのか、気になる所だが、特定はできなかった。黒澤は立教の出身ということだが、この映画の舞台は立教ではないようだ。小生はスケッチ目的で立教の構内を歩いたことがあるが、その時に見た景色とは全く違って見えた。

とにかく訳の分からない映画だが、そのわけのわからなさが、この映画の魅力でもある。映画のラストシーンなどは、若者たちが銃で撃ちあう場面なのだが、なぜかれらが銃で撃ちあうのか、一切のアナウンスはない。だからただの遊びにも見える。この映画全体が遊びの産物だといってもよい。







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