レバノン戦争:イスラエルとパレスチナ

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1982年から1985年までの、三年にわたるレバノン戦争は、ベギンが仕掛けたものだった。ベギンの狙いはパレスチナの代表たるPLOを殲滅することだった。エジプトとの平和条約締結に成功したベギンは、もはやアラブ側が一体となってイスラエルに対立する事態を恐れることはなかった。それまでのアラブ連合軍は実質上エジプト軍が主体になっており、そのエジプト軍が参戦しないアラブ軍は敵にはならなかったからだ。また、折からイラン・イラク戦争がおこり、イラクは対イスラエル戦争に戦力を割ける状態ではなかった。ひとりシリアのみは、イスラエルに敵対していたが、シリアの戦力は大して怖れる必要がなかった。さらに当時のアメリカの政権は、レーガンが担っていたが、レーガン政権はイスラエル贔屓だった。つまり状況がベギンにとって非常に都合よかったわけだ。ベギンはこれをPLOつぶしの千載一遇のチャンスと受け止め、レバノンを根拠としていたPLOに攻撃を仕掛けたわけだ。

アラファトのPLOがレバノンにやって来たのは、1970年にヨルダンを追われたからだった。PLOはベイルートに本拠を置き、多くのパレスチナ人を連れて来た。そして独自にインフラ整備やパレスチナ人への行政サービスを実施したので、あたかも国の中の国といった観を呈するに至った。レバノンはそんなPLOを歓迎したわけではなかったが、PLOを排除する実力もなかったのである。

だが、パレスチナ人の大量の流入は、レバノン社会の抱えていた矛盾を激化させ、ついに1975年の内戦に発展した。この内戦はレバノンのキリスト教徒とイスラム・PLO連合軍の対立という形をとった。それまでのレバノンでは、少数派のキリスト教徒が支配的な地位を占めていたのだったが、パレスチナ人の流入によってイスラムの比率が余計に高まり、そのことに脅威を覚えたキリスト教徒側が攻撃に立ちあがったというものだった。

この内乱はキリスト教徒側が勝利した。それにはシリア軍の介入が大きく働いた。シリアがなぜイスラム側ではなくキリスト教徒側に立ったのか。色々な思惑があったのだろうが、要するにキリスト教徒とイスラム教徒を対立させることで、シリアの影響力を保持することを狙ったのだと思う。

内戦に敗れたPLOは、レバノン南部に本拠を移した。PLOはそこからイスラエルへの攻撃を行った。その攻撃が呼び水となって、ベギンによるレバノン攻撃を招いたわけである。言い換えればベギンはこの攻撃を理由にしてレバノンにいるPLOをつぶしにかかったわけである。

イスラエル軍は1982年6月にレバノンに侵入するや、破竹の勢いで進軍し、三日後にはベイルートに迫った。この戦争でPLOは壊滅的な打撃をこうむった。イスラエルに立ち向かったのはシリア軍だった。しかしそのシリア軍も完全に敗北した。シリア軍の武器はソ連製、一方イスラエル軍の武器はアメリカ製であった。だからこの両者の闘いは、武器の性能をめぐる米ソの代理戦争といってよかった。ソ連製の武器は、1973年の第四次中東戦争では威力を発揮したが、その後アメリカの軍需産業の高度化によって、アメリカ側の武器の性能がソ連のそれを上回った。レバノン戦争には、その事実を世界に向って示したという効果もあったわけだ。

ベギンのイスラエル軍は、レバノン国内にいたアラファト以下のPLOを根絶やしにしようともしたが、それにはさすがにアメリカも座視できず、仲介に入った。その結果、アラファト以下パレスチナ人14000人がレバノンを脱出してチュニジアの首都チュニスに向かうことになった。その際イスラエルは、パレスチナ人の安全を約束したが、実際には、ベイルート郊外のサブラとシャティラで、パレスチナ難民800人が虐殺されるという事件が起こった。実際に手を下したのは、キリスト教マロン派だったが、そこはイスラエルの占領下にあり、しかもイスラエルは虐殺の事実を知りながらそれを見逃したといわれる。したがってイスラエルもその虐殺に深くかかわったと非難される立場にある。ともあれこの虐殺は、ディル・ヤシーン村の虐殺と並んで、イスラエル・パレスチナ関係における最大の汚点となった。

イスラエル軍は引き続きレバノンに居座り、キリスト教マロン派を手なづけながら、レバノンをイスラエルの属国にしようと企んだ。これに対しては、レバノン国内のイスラムが強く反発した。かれらはPLOを疫病神として嫌ったが、イスラエルはもっと忌避すべき敵だったのである。とくに南部のシーア派がイスラエルを忌避した。かれらはイスラエルの占領軍に対して捨て身の自爆攻撃を仕掛けた。これに対してイスラエルにはなすすべがなかった。死を覚悟で近づいてくるアラブ人を一人残らず防ぎ止めることはできないからだ。この攻撃で、イスラエル軍には多くの犠牲が出た。

イスラエル兵の犠牲が500名を超えたところで、ベギンは国内の批判に耐えず、ついに首相を辞任するはめになった。時に1983年8月のことであったが、イスラエル軍がレバノンから全面撤退するのは、1985年4月のことである。

この戦争によってもイスラエルはPLOを殲滅することができなかった。PLOを殲滅することができないということは、パレスチナ人の存在を無視することができないということを意味する。修正主義シオニストであるベギンにとっては、パレスチナの地はもともとユダヤ人の土地なのであり、そこにはユダヤ人以外に正当な住民などいないということになる。だから、パレスチナ人の存在は、非常に都合が悪いのである。それゆえパレスチナ人を、根絶やしにする必要があり、その為に殲滅戦争を仕掛けたのであったが、それがうまくいかなかった。とりあえずPLOをチュニスに追いやり、直接の武力攻撃を受ける危険が去った、ということだったが、それだけでも、イスラエルにとっては大きな成果とすべきだったろう。

ともあれこの戦争によって、軍事強国としてのイスラエルのイメージがますます強められた。一方で、弱者に向って一方的な攻撃を仕掛けるイスラエル軍の非人間性も、世界の前にさらけ出されたといってよい。それはイスラエルにとってはマイナスイメージとなっていった。そのマイナスイメージは、インティファーダを通じて更に増幅されることになる。






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