共産党宣言の現在的意義

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マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を書いたのは1848年のことだ。それから170年たった現在でも、この本は読む価値がある。歴史的な文献としてではなく、社会の分析と変革への重要な手引きとしてだ。この本は資本主義社会の基本的な特徴を分析したうえで、それを変革するための条件と、変革の主体について明らかにしている。この本が主張していることは、資本主義社会とは、ブルジョワジーとプロレタリアートの二大階級からなる社会であり、最終的にはプロレタリアートがブルジョワジーを倒して共産主義社会を打ち立てるというものだ。マルクスとエンゲルスはそうした主張を、単に願望としてではなく、歴史的な必然として提示したのだった。

かれらはこの歴史的必然としての共産主義社会の到来が、比較的近い将来、あるいはそう遠くない将来に実現されると考えていたようだ。ところが必ずしもそうはならなかった。ソ連や中国では革命が起きて、それはたしかに共産主義を標榜する勢力によってなされたのではあったが、いずれも後進国での出来事であり、マルクスたちが予言した高度資本主義社会での出来事ではなかった。また、ソ連はその後消滅してしまったし、中国も資本主義を大幅に取り入れるようになった。そんなこともあって、マルクスたちのこの文献は、現実的な意義を持たなくなったとする見方もある。

マルクスたちの予言は、二つの前提に支えられていたように思う。一つは、資本主義が比較的早い時期に世界規模に拡大し、そこでの階級対立が全地球的なスケールで先鋭化するということ。その結果、ブルジョワジーによるプロレタリアートの搾取が全地球規模で容赦なく進み、プロレタリアートにはもはや人間らしい生き方ができる余地が全くなくなり、生きるためには資本主義というシステムを廃絶して、共産主義的な原則にもとづいて社会を作り直さねばならないと確信するに至るということである。窮鼠猫を噛むではないが、プロレタリアートはいわば追いつめられた形で革命に訴えざるを得ないのだと彼らは考えたようである。かれらの言う必然とは、そういうことなのだろう。少なくとも、共産党宣言を書いた時点ではそう思っていたようである。彼らが共産党宣言を書いた1848年には、フランスで2月革命と呼ばれる労働者蜂起が起き、それが近隣諸国にも伝播して、ヨーロッパ全体が異常な熱気に包まれていた。その熱気を感じ取ったマルクスらが、プロレタリアートの革命が切迫していると感じたのは、無理もないところがある。

マルクスは後に資本論を書き、その中で、生産力と生産関係の矛盾が共産主義革命を用意すると強調するようになるが、共産党宣言の段階では、もっと人間主義的な見方をしていたと言えるのではないか。

マルクスたちの予言は、文字通りの形では未だ実現していないわけだが、それはなぜか。かれらの予言は二つの前提に支えられていたと言ったが、それらの前提が実際にはどのように働いたか、それを分析することで、この「なぜか」への回答が得られると思う。

まず、資本主義発展についての見通し。かれらは資本主義が比較的早い時期に全地球規模に拡大し、(理念的には)地球全体が単一の原理で動く社会になるだろうと予想していた。そこではもはや国境は意味を持たなくなり、全地球的な規模において、資本主義という共通した単一の原理にしたがって社会が動いていく。その社会においては、ブルジョワジーとプロレタリアートの階級対立は極限的な段階に達し、矛盾は極度に先鋭化する、というふうにかれらは考えた。その先鋭化した矛盾が共産主義革命を勃発させるだろうと考えたわけである。ところがそうはならなかった。そのわけは、資本主義のグローバル化が、かれらの思ったようには進まなかったからだ。現実には、20世紀は戦争の世紀と言われるように、国家が重要な意義を持ち続けた。国家というものは、基本的には支配階級の、したがってブルジョワジーの利害を代表する役目をもっているとマルクスらは考えていたわけだが、実際には、さまざまに複雑な利害を調整するという機能も持っているわけで、その機能を通じて、資本主義の矛盾を緩和する役割を果たして来たわけである。

このことは二番目の前提とかかわってくる。二番目の前提は、ブルジョワジーによるプロレタリアートの搾取が、非人間的な残酷さを帯びるに至り、プロレタリアートは反逆(革命)以外に生きる道を見いだせなくなるということだった。そこでこの残虐性を弱めることによって、プロレタリアートに生きる望みを持たせ、そのことで資本主義の矛盾を緩和するという選択肢が可能になる。実際二十世紀の先進資本主義国家は、こうした選択を行ってきたのである。それには、ソ連で起きた革命への対応だとか、帝国主義戦争を遂行するうえでの必要とかいった事情が働いた。ソ連で社会主義政権ができたことは、いきおい社会主義対資本主義の体制選択の問題をひき起こし、資本主義が生き残るためには、プロレタリアートの不満を幾分かなりとも緩和する必要性に直面したし、帝国主義戦争の遂行は、総力戦とも言われるように、国民を戦争に駆り立てるものであるから、国民の強い協力を必要とする。その必要性が、社会福祉という形での、国民すなわちプロレタリアートの懐柔を促した。こうした事情から、二番目の前提である階級対立の矛盾が緩和され、それが資本主義の延命につながったと言えるのではないか。

だが、20世紀の末近くになって、ソ連が崩壊したことで、社会主義体制全体が崩壊したというふうに認識されるようになり、いまや地球全体が資本主義の原理で動くようになった。しかもグローバライゼーションといわれるように、経済を中心に世界の単一市場化が進み、もはや国境が意味をもたなくなるようになりつつある。しかも、もはや社会主義というライバルがいなくなったことで、ブルジョワジーはプロレタリアートに余計な配慮をする必要がなくなったと考えるようになった。そこでマルクスがかつて分析したように、ブルジョワジーによるプロレタリアートの国境を超えた搾取が進んでいる。日本における非正規労働者の搾取はその最たるものであろう。

この趨勢が続けば、マルクスたちの予言がまずます現実味を帯びるのではないか。世界が単一の世界市場を形成し、そこにおいてブルジョワジーによるプロレタリアートの国境を超えた地球規模の搾取が進んでいくと、階級対立とそれによる矛盾は愈々先鋭化し、もはやプロレタリアートが生きていくためには、地球全体を一挙に変革しなければならない。そう思われるような事態が、次第に近づいて来たのではないか。

そういうわけで、マルクスとエンゲルスが170年前に書いた共産党宣言は、21世紀現在の地球の姿を鏡に映し出しているといってもよいように思えるのだ、






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