岸辺の旅:黒沢清

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黒沢清の2015年の映画「岸辺の旅」は、亡霊たちをテーマにしたものだ。その亡霊たちが、亡霊らしくはなく、あたかも現実界の人間と同じように振る舞うというのがこの映画のミソで、これを見ると、人間界と幽界との境界があいまいになる感覚に見舞われる。黒沢清にはもともとそう言う傾向があったが、この映画にはそれが極端な形で出ている。

三年前に死んだはずの男(浅野忠信)が、妻(深津絵里)の目の前に現れる。妻がこしらえた白玉に導かれたようなのだ。男はその白玉をうまそうに食うと、妻と一緒に寝る。だがセックスはしない。亡霊にはそこまではできないとばかりに。そんな夫との再会を、妻は夢ではないかとも思うのだが、どうやら夢ではないらしい。そんな妻に向って夫は、一緒に旅に出ようと誘う。妻は当然のことのようについて行く。

彼らは色々な人々を訪ね廻るのだが、最初に訪ねたのはある町で新聞配達店を営んでいる初老の男(小松政男)。実はこの男もずっと以前に死んでいるのだが、本人はそのことに気づいていないのだと言う。しかし浅野ら夫婦としばらく暮らしている間に、自分も死んだ妻のことを思い出したりして、どこかから呼ばれているような気がしてくる。あの世から死んだ妻が呼んでいるのだろう。

二番目に訪ねたのは、街角の中華料理店。中年夫婦が店を切り盛りしている。かれらもまた死んでいるのかと深津は思うのだが、かれらは生きていると浅野が言う。ところが、夫婦の妻の妹というのが、亡霊となって出て来る。その亡霊は十歳の少女で、生きている時にはピアノが好きだった。そこで姉のピアノを弾こうとするのだが、姉がそれを許さない。そのことを姉は、妹が死んだ後で後悔する。どうして弾かせてあげなかったかと。そんな姉の前に死んだ妹の亡霊が現れ、姉の気持に応えてピアノを弾くというわけなのだ。

黒沢は、「トウキョウソナタ」のなかでも少年にピアノを弾かせていたが、どうやら子供にピアノを弾かせるのが好きらしい。

深津はふとしたことから、夫に愛人がいたことを知る。そのことで強い嫉妬を覚える。いまさら嫉妬してもはじまらないわけだが、どうにも気持ちが収まらず、その愛人に会いに行ったりする。そんな妻の前から、夫の亡霊はしばらく姿を隠すのだが、やがて妻の作った白玉に導かれて戻ってくるのである。

次に訪れたのは、山里のある集落。浅野は以前その集落で塾を開き、村人たちから慕われていたのだ。そこに未亡人とその息子と老人(柄本明)の一家が暮らしている。未亡人は夫が死んでから抜け殻のような状態になっているといい、そんな彼女を老人は生きておらんのでしょうというのだが、浅野は生きているという。死んでいるのは彼女の夫なのだ。その夫の亡霊が彼らの前に現れる。その亡霊はこの世に未練があるらしく、妻の前でかきくどくのだ。

深津はまた、自分の父親の亡霊にも会う。お前があの男と結婚したのは間違いだったと父親は言う。深津はそれには答えないで、母親のことを尋ねる。母親はあの世で穏やかで暮らしているよと父親は言う。わたしもあの世にいってよいのかな、と娘が言う。すると父親は、いまのままがいいと答えるのだ。

深津は浅野に向って、もう旅は終りにして、一緒にうちに帰ろうというのだが、浅野はそろそろ自分もこの世から去る頃合いだと答える。その言葉に深津は、自分が一緒にいたのが夫の亡霊だったことに、あらためて気づかされるのである。深津は旅の最後に、持参していた稲荷への祈願書を焼き捨てる。その祈願書には夫との再会の願いが記されていたのだ。再会を果したいまは、十分にその役割を終えたわけである。

こんな具合になんとも不思議な感じの映画だが、思わず引き込まれてしまうような魅力がある。黒澤の作品のなかでももっとも出来がいいのではないか。






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