フェルディナン・バルダミュの放浪:夜の果ての旅

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小説「夜の果ての旅」の内実は、語り手たるフェルディナン・バルダミュの放浪の旅である。その放浪の旅を小説は「夜の果ての旅」というタイトルにしているわけだが、「夜の果ての旅」(Voyage au bout de la nuit)とはどういう意味か。「夜の果て」といえば、普通は夜明けを連想するが、この小説からはそういう印象は受け取れない。夜はいつまでも明けないばかりか、かえって深まるばかりのようである。だから明けることのない夜の、暗闇の底を旅するといったイメージに受け取れる。それならなんとなくわかるような気がする。主人公フェルディナンド・バルダミュの旅は、目的地をもたない、したがって果てることのない旅なのだ。

とはいえ、作者としては、その旅になんらかの意味付けをしたかったのだろう。小説の冒頭に短いエピグラフのようなものを置き、また民謡らしきものを引用している。その民謡は「スイス衛兵の歌」(1793年)というもので、その一節に次のようにある。
  この世は旅さ
  冬の旅、夜の旅
  一筋の光も射さぬ空のもと
  俺たちゃ道を求めて進む
つまり人生そのものが、道を求めながらの旅だと言っているわけで、その道のない旅を夜の果ての旅に譬えたいらしいとは、どうにか伝わってこないでもない。

一方、エピグラフのようなものは、自分の旅は完全に想像のものだといい、また生から死への旅だといっている。つまり人生の「向こう側」へ向かって進む旅だというわけである。人生の向こう側を、作者は「夜の果て」と言いたいようである。

ともあれ、この小説で語られる旅は、普通の旅のイメージとは異なり、人生の目的地を求めながらも永遠にたどりつけそうもない無意味な旅だということになりそうである。それはどうやら、生きることの無意味さを意味しているようである。

小説の冒頭で、つまり旅の始まりの時点で、フェルディナン・バルダミュは医学生として出て来る。かれは友人から、おまえはアナキストだと指摘されて、その通りだと答える。ところが志願兵を募る軍隊の行進がそばを通りがかると、それに身を投じる。時はあたかも第一次大戦が勃発した頃。国家は志願兵を求めていたのだ。フェルディナンが志願兵になったのは、別に愛国的な感情にかられたからではない。かれには愛国心などはない。そこはトーマス・マンの小説「魔の山」の主人公ハンス・カストルプとは違う。ハンスもまた世の中を斜めから見ていることではフェルディナンと同様だが、世界大戦が始まると、どういうわけか、居ても立ってもいられなくなる。それをハンスは愛国心のなせるところと自覚するのだが、フェルディナンにはそういう自覚はない。かれはわけのわからぬ発作に駆られて軍隊に志願してしまうのだ。

戦争はフェルディナンにとってひどいものだった。昨日まで友人として親しくしていたかもしれない人間と殺しあわねばならなかったし、第一親しくなったばかりの戦友が殺されるのを見なければならなかった。それも同じフランス人によって殺されたのだ。そんな戦争の不条理さを、フェルディナンは我慢できなかった。そこでかれは何とかして戦争から逃れたいと思い、そのためならドイツ軍の捕虜になりたいとまで思うのだが、捕虜になる前に負傷したおかげで、前線から脱落することになった。それは束の間の自由をかれにもたらした。かれはその自由を、女たちを恋することに使った。ローラとか、ミュジーヌとかいった女たちだが、彼女らとのことは別稿で詳しく取り上げたいと思う。

前線から脱落して自由に生きている間に、フェルディナンは気違いを装って精神病院に入れられたりするが、そのうち使い物にならないと宣言されて、軍隊から放逐されるのだった。ともあれ、自由の身になったフェルディナンは、ヨーロッパを逃げ出して、なるべく遠い所へ行きたいと願い、とりあえずアフリカ行きの船に乗る。ところがこの船の中で、フェルディナンは一種の村八分状態に陥り、身の危険を感じるようになる。というのもこの船には、金を払って乗っている者はおらず、みなそれぞれアフリカ行きの理由をもっているのに、フェルディナンだけは金を払い、しかも何が目的でアフリカに行くのか明らかでなかったからだ。そこでかれは皆から差別の標的にされ、今にも殺されそうな目に合う。恐怖を感じたフェルディナンは、船が小コンゴの港に近寄った時に、脱出するのである。

小コンゴのゴノーという町で、フェルディナンはボルデュリエール商事といういかがわしい会社に雇われる。その会社は、現地の黒人を搾取して金をもうけていたのだ。フランス人はアフリカ黒人を牛馬並みに使役する一方、かれらの無知に付け入ってさまざまなものを略奪しているのだ。そうしたフランス人の凶暴さを見たフェルディナンは、早めに手を切りたいと思うのだが、かえって奥地にある支店に派遣され、次第に泥沼につかっていく自分に焦燥を感じるのだった。戦場に比べれば、命の危険が差し迫っていない分ましかもしれないが、まともな人間が暮らす所ではない。

そのうち、フェルディナンはマラリアの症状はひどくなるし、寝起きしていた小屋が消失したりで、いやでもそこで暮しておられず、別の地に向けて移動しようと思うのだのだが、どういうわけか黒人たちに籠に乗せられて、海の方に運ばれる。その結果、自分がガレー船の漕ぎ手として、黒人たちに売り飛ばされたことを知るのである。何たる迂闊さ。だがそのおかげでフェルディナンは、その船でアメリカに向かうことができたのである。

アメリカでもフェルディナンは、あいかわらず女の尻を追いかけたのだったが、それを別にすれば、アメリカという国は、考えていたほどいいところではなかった。フェルディナンはデトロイトでフォードの製造ラインの仕事にありつくのだが、そこで悟ったことは、アメリカでは人間が機械を使うのではなく、機械が人間を使うということだった。人間は機械の付属品として、容赦なくこき使われるのである。そんなことに幻滅したフェルディナンは、フランスに舞い戻ってくるのだが、そこも相変わらずひどいところだった。自分はさんざんな目に会った挙句フランスに戻って来たというのに。そのフランスはかつて脱出したいと願った、そんなひどい状態のままだったのだ。

そんなわけで、自分の周囲との間で親密な関係を築けず、たえず疎外感を味わずにはおれない毎日が、意味のないままに過ぎていく。そんな無意味な生活でも、フェルディナンは捨て去るわけにはいかない。捨て去るとは、自分がからこの世を去るということだが、この世から去ってしまっては、つまり死んでしまっては、愚痴も言えなくなるではないか。人生は、愚痴を言うだけの取柄はあるのかもしれない。そんな思いをかみしめながら、フェルディナンはこの小説から退場するのだ。あてのない旅の、その旅先から。





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