維摩経を読むその六:天女と如来の家系

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第六章は、漢訳では「観衆生品」と呼ばれ、前半では菩薩が衆生を観る観方について、後半では天女のあり方について説かれる。

衆生とは生命のあるものという意味で、主に人間のことをさすが、広く生き物一般をさすこともある。その衆生を菩薩はどのように観るべきか。そう尋ねる文殊菩薩に、ヴィマラキールティは次のように答える。「たとえば、賢者が水中の月を見るように、それと同様に菩薩は衆生を見るべきです。たとえば、手品師が彼の作り出した人を見るように、鏡に映った顔を見るように、陽炎に現われた水を見るように」そのように衆生を見るべきであると。その意味は、対象には実体というものはなく、幻のようなものだということである。実体としての我はないというのは「空」の思想であるが、ここではその思想が改めて語られるのである。

菩薩は衆生に対して慈・悲・喜、不偏の心を起す。慈とは衆生をいつくしむ心であり、悲とは衆生を憐れむ心であり、喜とは与えて悔やまない心であり、不偏とはあらゆる衆生に対して偏らない心である。

また、身体の根本についての議論がなされる。身体の根本は欲望と愛着である。その欲望と愛着が起るのは虚妄な分別のためである。虚妄な分別は倒錯した考えから生じる。そのような倒錯した考えには基底というものがないから、そのようなものにとらわれないようにするべきである。

この時に、一人の天女が天の花を人々に振りかけた。すると菩薩たちに降りかかった花は地に落ちたが、声聞たちに降りかかった花は振り払っても落ちなかった。シャーリプトラも振り払おうとしたが、花は落ちなかった。シャーリプトラに向って天女は言う。花が落ちないのは花のせいではなく、あなたのせいだと。あなたに思慮や分別があるために、花は落ちないのです。菩薩に降りかかった花が落ちたのは、思慮や分別を離れているためです、と言って、天女は思慮や分別をはなれることの大切さを説くのである。

そんな天女についてシャーリプトラは、女にしては出来すぎだと思ったのであろう、あなたを男にしたいというような意味のことを言う。これは出家を男に限定する因襲的な考えを反映しているのである。その考えをあざ笑うかのように、天女はシャーリプトラを女の姿に変える。驚いたシャーリプトラに向って、天女は男女の区別にこだわることのむなしさについて説くのである。さとりをめざすという点では、女も男も区別はないと。

続く第七章は、漢訳では「仏道品」と題し、如来の家系について説く。家系とは比喩的な表現で、実際には誤った個我の観念を生み出す煩悩のことである。この部分は、ヴィマラキールティの問いに文殊菩薩が答えるという形で展開される。文殊菩薩は言う、「(誤った個我の観念を生み出す)身体が如来の家系です。無明も、存在への愛着もその家系です。貪欲、怒り、愚かさが家系です。四つの倒錯も五蓋も家系です。六種の認識の場が家系であり、七種の識住が家系です。八つの邪道が家系であり、九種の悩みが家系であり、十の不善業道が家系です。これらが如来の家系というもので、要するに、六十二種の謬見が如来の家系に属します」と。

このように言うわけは、大海を渡らなければ、無価の珍宝を得られないように、煩悩の大海に踏みこまなければ一切知の心は起こらないからである。煩悩を克服することを通じて、はじめて悟りへの道が開けるというわけであろう。

その悟りへの道ということについては、前段の部分で、道でないものを道とすると説かれている。これは逆説的な言い方であるが、要するに、世間的な道を道としながら、しかもそれに染まることがないという意味であろう。蓮華が泥水の中から咲くように、仏法は煩悩の泥の中から咲くという譬喩もなされる。

如来の家系ということに関連して、菩薩の家族についても説かれる。これは不現一切色身菩薩の問いに対して、ヴィマラキールティが詩頌を以て答えるという形をとっている。その冒頭の部分を紹介しよう。

  諸々の菩薩にとって、智慧のパーラミターが母、方便に巧みなことが父。
  世の指導者(である菩薩)は、その(父母の)間に生まれる。
  法を喜ぶことが(菩薩の)妻であり、慈と悲とは女の子。
  法と二種の真実は男の子。そして空性への思考がその家である。
  同じく、あらゆる煩悩は、思い通りに使役される弟子であり、
  友人は悟りへの支分で、それによってすぐれた悟りに到達する。
  いつも交わる伴侶は六つのパーラミター。
  四摂事はその家の女たちであり、彼女たちの歌うところ、すなわち法を説く。
  諸ダーラニーが園林であり、悟りへの支分は花として咲く。
  その果実は解脱の知、そして、法の巨大な財産が幹となる。

如来の家系が煩悩という否定的なものであらわされていたのに対して、菩薩の家族には煩悩のほかに、法や真実といった肯定的なものも含まれる。いずれにしても、煩悩や真実を家系とか家族にたとえるところは、仏教特有のレトリックだと言えよう。






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