宝積経迦葉品を読む

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宝積経はさまざまな経典から成り立っている。しかもそれぞれの成立年代にかなりな幅があるようで、統一した経典とはいえない。漢訳大蔵経には「大宝積経」として四十九にのぼる経典が収められているが、その五番目には浄土教の経典「無量寿経」が、また四十八番目には「勝鬘経」が収められている。

迦葉品は「摩訶迦葉会」と題して、二十三番目にある。宝積経の経典の中でももっとも古い層に属するものと思われる。それは法華経と比較してわかる。法華経も古い経典だが、それよりも古いようだ。というのも法華経ではすべての衆生が成仏できると教えているが、迦葉品はまだそこまでは主張していないからだ。小乗の徒には成仏が認められていない。だから法華経よりは古く成立したものと推定されるわけである。

もともとはこの迦葉品をさして宝積経と言った。宝の言葉を集めた経という意味である。それが今日のように四十九の経典全体をさすようになって「大宝積経」と呼ばれるようになった。宝のような貴重な経典の集まりという意味になったわけである。

迦葉品は四度も漢訳されたように、宝積経のなかでももっとも重視されてきた。サンスクリット語の原典とチベット語訳も現存している。小生が読んだ中公版「世界の名著2大乗仏典」にはサンスクリット語原典からの抄訳(長尾雅人編訳)が収められている。

お経全体の構成は、釈迦が長老弟子のカーシャバ(迦葉)を相手に教えを説くことからなっている。舞台はラージャグリハ(王舎城)のそばにあるグリッダクータ山(霊鷲山)。八千人の比丘たちと、一万六千人の菩薩たちが一緒であった。菩薩たちは、さまざまな仏国土からやってきた者で、この世(娑婆世界)で生きたのちには成仏することが約束されていた。

釈迦がカーシャバに向って説く言葉は、菩薩のあるべき姿である。そのあるべき姿を声聞や独覚など小乗の修行者と比較しながら説く。菩薩のあるべき姿は、さまざまな比喩を用いながら説かれる。熱、風、月、日輪、獅子、巨象、蓮華など、さまざまな事象を取りあげながら、それらとの譬喩においていかに菩薩がすぐれているか説く部分は、数あるお経のなかでも、もっとも文学的な香気を感じさせる部分だと言える。

その菩薩に対比して、小乗の声聞は矮小さを批判される。釈迦は、「はじめて発心したばかりであっても、菩薩はすべての声聞たちや独覚たちにまさる」と言い、「声聞は菩提の座(菩提道場)にすわり、このうえない正しい完全な悟り(無上正等菩提)を得ることは決してない」とも言うのである。

小乗の僧(沙門)が成仏できない理由として色々あげられるが、基本的には、小乗の僧たちが自分自身のことだけにこだわり、衆生の救済に無関心ということである。

釈迦の批判に怒った小乗の僧たちは、その場から退出してしまう。それに対して釈迦は、彼らを追いかけて行って、目をさまさせるようにスプーティ(須菩提)に命じる。法華経方便品にも、増上慢の僧たちが釈迦の説法を拒否して退去する場面があるが、釈迦は去るにまかせて追わなかった。それに対してこのお経では、釈迦は小乗の僧たちを目ざめさせようとするのである。

スプーティはしかし、自分の身には余ると言って辞退する。そこで釈迦は、神通力で二人の比丘を仮作し、それらに小乗の僧たちを追わせ、目覚めさせる努力をさせるのである。比丘たちは小乗の僧たちに向って言う、「涅槃という観念を捨て去ってください。観念において観念をつくってはいけません。観念でないものにも、観念を作ってはいけません。観念(の実質)を知るのに、観念を用いてはいけません。観念を知るのに観念を用いるような人には、観念による束縛があります。長老がたよ、観念を滅し、感受を滅した(想受滅)ところに、精神を集中(等持)してください。決して分別したり、妄想したりしてはいけません」。こういうことで仮作された二人の比丘は何を言いたいのか。おそらく小乗の僧たちが、空性を理解していないことに、注意を促しているのであろう。

このお経は、仮作された比丘たちの言葉に、小乗の僧たちが説得されるところで終わっているのだが、その合間に、大乗の根本思想が繰り返し展開される。中道、空性、仏性といったものがそれだが、中でも中道についての言説は、このお経最大の聞かせどころである。中道についてこれほど詳しく説いたものはほかになく、したがってさまざまな書物の中で引用されてきた。その中道思想の内実については、別稿で触れたいと思う。






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