ロリータ:S・キューブリック

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スタンリー・キューブリックの1962年の映画「ロリータ」は、ナボコフの有名な小説を映画化したものである。小生は原作を読んでいないので、比較することはできないが、聞くところによれば、ナボコフはこの映画に失望したというから、原作の雰囲気とは違ったもののようである。原作では、ロリータはローティーンの少女ということになっており、その少女に中年男が異常な愛を向けるというものだったようだが、この映画の中ではロリータはハイティーンになっており、しかも性的な場面は全くといってよいほど出てこない。原作はその部分を売り物にしているわけなので、それが出てこないでは、気の抜けたサイダーのようになってしまうだろう。

そういうわけで、この映画にいわゆるロリータ・コンプレックスなるものを期待する観客は、裏切られたと感じるだろう。なぜキューブリックは、原作のセクシーな部分をカットしたのか。それには当時のアメリカ社会の偽善的体質が反映しているようである。1960年代初頭のアメリカ社会は、性的なことがらに非常に敏感であり、映画の中でセックスシーンを取り上げることはタブーだった。そうしたタブー意識が個々の映画人に自己検閲させることにつながり、さしさわりのない映画作りが蔓延していたのである。この映画は、そうした時代の風を受けて、さしさわりのないものになってしまったわけだ。

この映画の中のロリータの存在感は、圧倒的なものではない。中年男の少女愛をテーマにしたものとして、日本では谷崎の「痴人の愛」があげられ、増村保造がそれを映画化したものでは、少女ナオミの存在感は圧倒的であった。そうした存在感が、このキューブリックの映画には欠けている。むしろロリータの母親を演じたシェリー・ウィンタースの方が、ずっと存在感がある。その母親は、恋人と思っていた男にコケにされて、狂乱状態に陥ったあげく、自動車に跳びこんで死んでしまうのであるが、そういう不幸な死に方を含めて、娘のロリータよりはるかに存在感がある。

その娘のロリータは、大学教授に体を許すと同時に、さまざまな男と懇ろになる。要するに淫乱なのだ。そうした淫乱さは、増村のナオミも感じさせたが、ナオミのほうがずっと迫力がある。この映画の中のロリータには、ナオミのような鬼気迫った妖艶さは感じられないのである。

キューブリックといえば、「2001年宇宙の旅」とか「時計仕掛けのオレンジ」とか、SFタッチの映画が有名だが、そうしたSF趣味は、この映画には見られない。セックスをカットしたのだから、その埋め合わせにSFタッチを持ち込んだら、もっとましな作品になったかもしれない。





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