四ツ木通用水引ふね、待乳山山谷堀夜景:広重の名所江戸百景

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(33景 四ツ木通用水引ふね)

四ツ木通用水とは徳川時代の上水の一つで、元荒川の瓦曽根から水を引いて、四ツ木を通って向島まで水を供給していた。しかし水質が悪く、時に海水が交ったりしたので、飲用には適さず、廃止されてしまったが、用水路そのものは、後々迄残った。それを埋め立てたのが、現在の曳舟通りである。

この用水は、上水の機能を失ったあとは、もっぱら輸送用に使われた。舟は艪でこぐのではなく、岸辺から綱で引っ張った。それで引き船と呼ばれたわけである。この絵は、人夫が船をひく様子を描いている。

川の左手に見える土手道は、水戸街道の脇道で、亀有で水戸街道に合流していた。そんなことから、水戸へ行く人や柴又帝釈天にお参りする人が、この引き船を利用したという。舟を引いていたのは、近隣の農家の男であろう。

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(34景 待乳山山谷堀夜景)

待乳山は、山谷堀の河口近くにある待乳山聖天の森をさしていった。聖天宮は商売繁盛、無病息災のほか夫婦和合にもご利益があるというので、一般の町人たちのほか、浅草の芸者たちにも人気があった。

この絵は、隅田川を挟んだ対岸の向島側から待乳山方面を眺めた構図である。川の向こうに山谷堀の河口が見え、その左手に、待乳山のこんもりとした森が見える。堀の周囲に灯りがともっているのは、茶屋の光である。そのあたりには何件かの茶屋が商売をしていた。

手前に、提灯に案内されて歩いているのは、向島あたりの芸者であろう。この芸者は、あまりスタイルはよくない。ずんぐりむっくりした体格である。広重はこうしたタイプの女が好きだったようである。

なお、徳川時代の遊び人は、船で隅田川を北上して、山谷川の河口で下り、あとは籠で吉原に向かった。端唄に「猪牙で行くのは深川通い、籠で行くのは吉原通い」と歌われたものである。






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