マルクスの今日的意義

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マルクスの思想が人類史上に持つ意義は、資本主義社会の歴史的な性格を解明し、それには始まりと終わりがあると指摘したことだ。資本主義社会が、歴史上の一時期に成立した限定的なものであって、やがては終末を迎えると指摘したことは、大方の人間にとってはショッキングなことだった。とりわけ社会科学者を自認している連中は、資本主義こそは永遠に持続するものであって、それに代替する制度はあり得ないと思っているから、マルクスの主張はスキャンダラスでさえあった。そういう意味では、ニーチェと似たところがある。ニーチェはキリスト教道徳の起源と、その歴史的な制約性を指摘し、キリスト教徒が考えるような永遠不変なものではなく、かえって粉砕すべきできそこないの制度だと指摘した。マルクスもまた、資本主義社会を粉砕すべきだと主張したわけだが、ニーチェがキリスト教への敵愾心から、その粉砕を主張したのに対して、資本主義社会には、崩壊へ向かっての衝動というか、必然性があると主張したのだった。

マルクス自身は、資本主義社会の崩壊が比較的早くやってくると予想していたようだ。資本主義社会の崩壊は、資本主義システムが内在的に抱えている矛盾が爆発した結果引き起こされるものだが、その爆発は、資本主義が最高度に発展した結果もたらされると考えていた。それをマルクスは、比較的近い未来に設定していたのだったが、実際の歴史においては、かならずしもそうはならなかった。20世紀に起きた、いくつかの社会主義革命と呼ばれる現象を取りあげてみれば、色々評価の仕方はあるだろうが、基本的には、マルクスが予言したような社会主義革命とはいえない。厳密な意味での資本主義ともいえないこれらのいわゆる「社会主義体制」は、資本主義以前の、いわば農奴性的な抑圧システムの矛盾が生んだものといってよい。

つまり、歴史の現実をみれば、マルクスの予言が実現されたとはいえないのである。かといって、マルクスの予言が無意味だったということにはならない。資本主義社会が、これまで曲がりなりにももってきたのは、資本主義に内在する矛盾を緩和することを通じてであり、また、国家の枠組みを最大限維持することを通じてだった。資本と労働の対立に国家が介入し、資本の行き過ぎた搾取の規制と、労働者への資源の割り当てを通して、資本主義の矛盾をいくらかでもやわらげ、その暴発を食い止めてきたというのが実際のところだ。

資本主義の発展は、究極的には国境を無意味にし、グローバルな資本主義体制の成立をもたらし、そこで総資本と総労働とが、地球規模で対立することとなる。そういう体制のもとでは、資本の論理を制約するものはなくなり、その矛盾はむき出しの形で作用する。それは労働者階級の非人間化を、いきつくところまで推し進めるだろう。国家がある場合には、国家が階級対立を和らげる働きをすることができるが、国家が存在意義を失うと、資本の暴走をとどめる力は働かない。労働者階級は、自分に課せられたくびきを耐えがたいものに感じ、それを取り除かない限り、人間らしく生きることはできないと観念するだろう。その時に、マルクスが予言したような革命が勃発する。

ともあれ、資本主義システムが、これまで破綻せずに生き延びてきたについては、資本の側からの意識的な対応があった。その対応ぶりをよく見ると、マルクスが指摘していたさまざまな矛盾を緩和させる努力だったことがわかる。資本は、国家による干渉がないかぎり、労働者の搾取を極限まで追求するということは、マルクスが指摘していたとおりである。これは放置していては、システムの崩壊につながる。労働者がそれを耐えがたいものと受け取って反抗に立ちあがるだけではない。労働者が自己を再生産できないほど搾取を進めることは、労働者階級が階級として存続できなくなることを意味する。資本は、労働者なしでは成り立たないわけであるから、システムをうまく動かすためには、労働者の搾取を緩和するほかはない。それはとりあえずは、労働分配率を上げるという形をとるだろう。また、さまざまな社会福祉システムの構築も視野に入って来るが、これは国民国家による、戦争への国民総動員と深くかかわっている。国民が安心して戦場に赴けるようにとの国家の意志が、社会福祉制度の構築へと向かわせたのである。

資本主義システムが、恐慌をもたらしやすいことの指摘は、マルクスの最も大きな貢献の一つである。恐慌は、場合によっては、資本主義システムにとって命取りとなりかねない。それは1929年の世界大恐慌が物語っているとおりである。それが繰り返し起きるようでは、資本主義体制は有効性を主張できないだろう。それに対してマルクスは、恐慌のコントロールを主張したわけではない。かえってなりゆきに任せるといった姿勢をとった。恐慌は、資本主義固有の現象なのだから、それが発現するのは、いわば資本主義システムにとっての生理現象のようなものだ。それがシステムの崩壊をもたらすのは、ある意味自然なことなのだから、それをコントロールしようとするのは、システムの延命を目的とする弥縫策だと考えていた。

しかし、資本の立場としては、そういうわけにはいかない。恐慌をなんとかうまくコントロールし、資本主義システムの延命を図らねばならない。そのための理論的な方策を用意したのがケインズだと言える。ケインズにはマルクスを意識したところは指摘できないが、その理論構成は、多分にマルクスの理論とのかかわりを感じさせる。マルクスが資本主義の廃絶を展望しているのに対して、ケインズはその延命を目的としているという相違はあるが、資本主義システムがかかえる問題点の認識という点では、共通するところが多いのである。

ケインズの理論のうちもっとも重要なのは、有効需要の重視と流動性選好の理論である。ケインズは恐慌などの経済的な不況の原因を、有効需要の不足に求めた。一方マルクスは、過剰生産に求めた。着眼するところは正反対のように見えるが、実は全く同じ現象を、違った言葉であらわしているだけなのである。マルクスは、過剰生産を防ぐためには、計画的な生産が必要だと指摘したわけだが、ケインズのほうは、有効需要を増やすためには、政府の介入が必要だと言ったわけで、要するに資本主義システムには自動的な調整能力はないから、政府が介入することが必要だと言っているわけである。そういう点では、ケインズは今日勢いを振るっている新自由主義的経済学者、マルクスなら俗流経済学者と呼んだ連中とは、一線を画しているわけである。

流動性選好の理論については、今日その有効性がますます明らかになっている。経済が頭打ちになって景気が上向かないのは、人びとが消費をしなくなって、金を貯めることを選ぶ、というのがこの理論の眼目だが、その正しさを証明する事例には事欠かないのである。経済活動を犠牲にしても、金を貯めることを選ぶというのは、資本主義システムにとっては、末期的な症状だ。資本主義の本質とは、資本が剰余価値を生むということにあるが、剰余価値を生むためには、生産活動を盛んにしなければならない。ところがその生産活動が阻害されるわけであるから、資本が剰余価値を生むということにはならない。そのことが何を意味するのか。よく考えて見なくともわかろうというものだ。流動性選好が高まる一方、利子率はゼロに近い水準になっている。資本主義システムの本質を、金が利子を生むということに見れば、金が利子を生まない今の世界は、資本主義の世の中とは言えなくなっているわけだ。

俗流経済学者は、流動性選好の罠から脱するには、政府が金をばらまけばいいと言っているが、それはマルクスなら浅はかだというだろうところの、貨幣主義的な発想だ。貨幣主義者(マネタリスト)は、貨幣の流れが実体経済に影響を及ぼすと考えるわけだが、マルクスに言わせれば、それは倒錯した考えであって、貨幣はあくまでも実体経済を円滑に動かすための手段にすぎないのである。

以上は、マルクスの今日的意義のうちの、経済・社会理論にかかわる部分である。マルクスにはこのほか、哲学的な分野での貢献もあり、それが今日でも人間の見方について、大きなヒントを与えてくれるのだが、それについては、とりあえずここでは触れずにおこう。






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