知恵のともしび:中論への静弁の注釈

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「知恵のともしび」は、ナーガールジュナの著作「中論」へのバーヴァヴィヴェーカ(静弁)による注釈である。バーヴァヴィヴェーカは、中観派のうちの自立論証派に属する人で、帰謬論証派が論争相手を論駁することで自分の正統性を主張するやり方に対して、自分の意見を積極的に主張するという方法をとっている。その方法とは、六世紀ごろの仏教思想家ディグナーガ(陳那)が確立した論理学を駆使して自分の正当性を主張するというものである。

ここでは、中公版「世界の名著2大乗経典」所収の「知恵のともしび第十八章自我と対象の研究」(長尾雅人編訳)をとりあげて、自立論証派の特徴について見てみたい。

この文章の目的は、自我があるとする伝統的な教説を批判し、自我があるとはいえないと論証することである。とはいっても、自我がないことを論証するものではない。自我と考えられているものは実は空であって、自我があるともいえないし、ないともいえない、というのが中観派の基本的な考えであることを明らかにするのである。そこで、この主張を支えるのが、ディグナーガの論理学である。これは独特の推論式からなり、現代通用している西洋的な形式論理学による三段論法とは全く異なっている。

形式論理学の三段論法は、AならばCである、BはAである、よってBならばCである、という形をとる。BがAに含まれているならば、Aの特性はBにもあてはまるということを形式論的に述べたものだ。これに対してディグナーガの推論式は次のような形をとる。
 心身の諸要素は自我ではない(主張)
 生滅するものであるから(論拠)
 たとえば、外界の物質元素が生滅するものであるから自我ではないように(喩例)

一見してわかるように、これは三段論法のように形式的な関係から一定の主張を導くものではなく、ある事象についての一定の主張を断定的に述べたものだ。心身の諸要素は自我ではないという主張の論拠は、(この推論式においては)自我は消滅しないものだという前提に立ってはじめて言えることなのに、その前提は無条件で、つまり形式的な必然性にもとづいて主張できることではない。この推論式では、論拠を補強するものとして喩例なるものが導入されているが、これは比喩によって二つの共通性を主張しようというものだ。上の場合には、心身の諸要素と外界の物質元素とが生滅するという共通性を持っているから、その共通性にもとづいて、同一性を主張しているわけだ。こういう推論を小生は隠喩的思考と呼ぶ。隠喩的思考は、属性の共通性に基づいて二つの事象の同一性を主張するもので、とても論理的とはいえない。その非論理的な推論の方法を、ディグナーガの論法はとっているわけである。

ディグナーガのこのような論法を、なぜバーヴァヴィヴェーカは採用したか。それについては、中観派と唯識派の論争が介在しているようだ。中観派はもともと帰謬論証法から始まった。それは中観派の祖であるナーガールジュナにある意味忠実なやり方だったわけである。ところが唯識派が登場すると、意識の実在性を、(独特の論法を通じて)主張するようになる。その論法を論駁するのに、従来の帰謬論証法では不十分なところがあって、その不十分さを埋めるための方策として、自立論証法が採用された。その自立論証法を用いようとする場合、ナーガールジュナの空の思想をそれによって展開するためには、(西洋風の)形式的な論理では間に合わないので、仏教になじむような独特な論法が必要となった。それに応えると思われたのがディグナーガの論理学だった。ディグナーガは唯識派の出身なので、敵方の論理を用いて敵方を粉砕するという意味があったのである。

ともあれ、この章のテーマは自我と対象の研究である。このうち自我は、アートマンという言葉であらわされている。だがその内実は、学派によって微妙に異なるようだ。ヴァイシェーシカ学派やニヤーヤ学派は自我といい、サーンキヤ学派は霊我といい、ヴェーダーンタ学派は単に我というふうに、それぞれニュアンスが違う。だが思考や活動の主体としての自我を認め、それが一定の対象を持つということでは共通している。それに対してバーヴァヴィヴェーカは、自我があるともいえないし、ないとも言えないと言って、自我の空性を主張するわけである。自我があるとは言えなければ、対象もあるとは言えない。自我同様対象も空なのである。

空を主張するのは虚無論ではないかとの批判に対しては、中観派は存在をただ否認するだけであって、無存在を積極的に肯定することはしないから虚無論ではないと反論する。

中観派はまた、世間的真理についても、それを頭から否定するようなやり方は、実際にはとらないと言って、自らの穏健ぶりを強調する。世の中には二種の真理がある、一つは世間的真理であり、一つは最高の真実である。最高の真実とは、「他の者をとおして知られず、寂静で、多様な言語によって論じられることなく、思惟をはなれて、種々性を超える」ものであり、言葉で説明できるものではない。つまり概念的な知ではない。それを悟ることが究極の目的であるが、しかし世間で生きるにあたっては、世間的な知恵を否定するばかりが能ではない。世間的な知とは何か。「一義でなく、多義でなく、断絶を説くのでなく、恒常を説くのでない。これが世の指導者である諸仏の甘露のような教えである」。そう言って、世間的な知も又、人間の生き方に一定の役割を果たすと認めるのである。中観派は、なにごとについても極端を避け、中道を行くというわけである。







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