隅田川橋場の渡かわら竈、郭中東雲:広重の名所江戸百景

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(37景 隅田川橋場の渡かわら竈)

橋場の渡しは、今の言問橋のやや上流で、浅草の橋場と向島の寺島を船で結んでいた。荷風散人の小説「隅田川」の舞台となったところ。隅田川の渡し場としては、最も古いといわれる。かの在原業平も、この渡しで舟に乗ったものだ。その折に京を懐かしんで詠んだ歌、「名にしおはばいざこととはん都鳥わが思ふ人はありやなしやと」。言問橋の名称は、この歌から来ている。

この絵は、橋場側から寺島方面を望んだ構図。岸に沿って植えられた桜の並木が見える。川には二艘の船が行き交っているが、徳川時代にはこの二艘の舟で、客をピストン輸送していた。

手前に見える煙は、焼き物の竈の煙。橋場の今戸には焼き物の竈がいくつもあって、瓦や瀬戸物を焼いていた。それらは今戸瓦とか今戸焼と呼ばれたが、品質はいまひとつだったようだ。

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(38景 郭中東雲)

浅草の吉原は江戸最大の遊興地であった。明暦の大火のあと、日本橋の芳原から移転してきて、新芳原と呼ばれた。ほぼ正方形の敷地の中に、碁盤上に道路を巡らし、道沿いに多くの妓家が並んだ。その全体をさして郭と呼んだ。郭はもと城郭の敷地を意味したが、転じて遊興街をさすようにもなった。

この絵は、その吉原遊興街のあさぼらけの様子を描いたもの。門は、その規模からして大門とは見えないので、大通りから伸びた横丁の入り口のようである。東雲の日が遠景になっていることから、そちらの方向が東だと思われる。

郭のメーンストリート仲の町通りは、いまでも存在しているが、大門からは南西の方向に延びている。したがって、手前の大きな道が仲の町通りだと思われる。横町を歩いている人々は、一晩遊んだ客が朝帰りするところか。






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