莫言のカニバリズムとスカトロジー

| コメント(0)
莫言の小説「酒国」にはさまざまなテーマが込められているが、中心となるのは酒と人肉食である。莫言の猥雑で豊穣な世界のなかで、人肉食が正面から取りあげられているのは、この小説の中だけだ。このショッキングなテーマを莫言はなぜ、持ち込んだのか。人肉食といえば、日本では大岡昇平の「野火」が思い浮かぶ。大岡の描く人肉食は、飢餓に迫られての極限的な行為であり、したがって極めて倫理的な意味合いを付与されている。それに対して莫言の描く人肉食は、そうした倫理的な意味合いを持たされていない。かえって祝祭的な雰囲気に包まれている。

人肉食は、欧米諸語ではカニバリズムと言う。カニバリズムは、南米の原住民の間に伝わってきたもので、極めて儀式的なものだ。人肉食をともなった儀式なのだが、それは飢餓を満たすことを目的とはしていない。目的は、文化的かつ祝祭的な性格を帯びているのだ。カニバリズムを営む人々は、人肉食を通じて、祝祭的な目的に仕えているのである。

莫言の描く人肉食は、どのような色彩を帯びているのか。小説の語り手は、それを人倫に反した行いであり、犯罪であると言っているから、とりあえずは倫理的な色彩を持たされていると言えそうである。しかし、いざ人肉を食う場面になると、倫理的な評価は背景に退いて、祝祭的な雰囲気が前面に出て来る。その人肉を食う場面は次のように描写される。「金剛鑽は一本の箸を握ると、皿の首なし男児のきれいに跳ね上がったオチンチンに勢いよく突き立てた。男の子はたちどころに分解して、肉の山と変わった」。男の子に首がないのは、特捜検事の丁鈎児が拳銃の弾丸をぶっ放したからだ。ともあれこの後すぐ、丁鈎児は男の子の丸焼きを食うのである。

こんなわけで、この小説の中の人肉食は、美食の最たるものとして描かれている。人々は、食文化の華として人肉食を楽しむのである。その原料は、生きている男児が供されることもあるが、堕胎された胎児であることもある。丁鈎児と行きずりのセックスをする女は、五度も堕胎させられたのだが、それは人肉料理の食材を差し出すためだった。その人肉食の原料が、なぜ男の子であって、女の子ではないのか、それについて詳しい説明はない。

男女がセットで食材になるケースもあるが、それは人肉ではなく、ロバ肉を用いたものだ。ロバの雌雄の性器を組み合わせて作った料理を、龍鳳吉祥という。そういう名がついたのは、カモフラージュのためだ。「ロバのオチンチンとオマンコという言葉はあまりに卑俗で、見ただけでも気分が悪くなり、意志薄弱な人にはあらぬことが連想されてしまう」ので、人々は前者を龍と呼び、後者を鳳と呼んで、それが組み合わさったものを吉祥と称し、巧みにカモフラージュしているというわけである。

この小説のもうひとつの主要テーマである酒については、高級銘酒「十八里紅」の製法が紹介される。この十八里紅というのは、小説「赤い高粱」の中で紹介されていたもので、熟成の過程で人間の尿を加えると、得も言われぬ香気と微妙な味わいが得られると書かれていた。これについて、世間の反応は無粋なもので、下らぬ批判が沸き起こった。そうした批判は全く的を得ていないと、李一斗は次のように糾弾するのである。「最近、私は新聞などで、醸造学も何もわからぬ連中がなんと先生あなたの奇怪絶妙の創造を侮辱して不潔な仕業と言っているのを読みました。酒の中に小便とは人類文明に対する冒涜だとか言っておるのですが、この連中はPH値、水質が酒の風味にどれほど大きな制約として作用するかを全くわかっていないのです」

もっとも、酒の中に尿を混ぜるという発想は、中国においてといえども、一般的なものではなく、莫言はこれについてのヒントを、日本から得たという。日本では、1990年に「奇跡が起こる尿療法」という書物が出版され、飲尿が健康に及ぼすさまざまな効用を紹介したことから、飲尿ブームが起った。莫言は、その本自体の内容よりも、それが引き起こしたブームを面白く思って、自分の小説にも取り入れたということらしい。なにしろ日本では、時の首相も「健康と精神爽快のために毎日早朝一杯の尿を飲みます」と強調しているから、この日本での飲尿ブームがよほど珍しく思われたのであろう。

たしかにそういうブームがあったように、小生も記憶する。その当時、小生のまわりでも、職場の令嬢たちが飲尿の効用について議論しているのを見たり聞いたりしたことがある。あるご婦人などは、小生にも毎朝是非一杯の尿を飲むように勧めてくれたくらいだ。たとえ自分の体から出たものでも、小便を飲む気にはなれませんよと答えたところ、それは尿の匂いがきついからで、食生活を改善すれば、香ばしい尿が出てくるはずです、是非がんばりなさい、と激励されたものだった。

尿に限らず、人間や動物の排泄物にこだわるのも莫言の特徴だ。排泄物へのこだわりはスカトロジーと呼ばれ、ヨーロッパではラブレー以来の伝統が確立されている。しかし東洋では、謹厳な儒学の影響もあって、排泄物を話題にするのははしたないこととされてきた。特に日本人は潔癖で、文学者たちも、武田泰淳を除いては、排せつ物を取りあげた者はない。武田泰淳は、外出中、食があたって強烈な便意に見舞われ、有楽町の雑踏の中で、野グソを垂れた経験を小説のなかで書いたことがある。だがこれは特異な例で、日本人のほとんどは、クソや小便にかかわりあいになることを避けてきたのである。

中国人はなからずしもそうではないらしく、小便の効用について「本草綱目」の中で触れられているほどだ。その中で、「童子の尿は補助薬として高血圧、冠動脈性心臓病、動脈硬化、緑内障、お乳の止まりなど幾多の難病に効くと書いてある」というのである。






コメントする

アーカイブ