豊乳肥臀:莫言を読む

| コメント(0)
莫言が「赤いコーリャン」の連作を書いた時は、テーマが抗日戦でもあり、また主人公たちをはじめ登場人物たる中国庶民が肯定的に描かれていたために、中国では大変好意的に受けとめられた。また、現代中国映画の旗手といわれる張芸謀が映画化したことで、日頃文学にはあまり縁のない一般大衆にもその名が広まった。作家としての順調な滑り出しだったわけだ。ところが、数年後の1996年に「豊乳肥臀」を書くや、一転して厳しい反応があった。批評家たちから手厳しい批判を受けた上に、本の出版停止処分を食らってしまったのだ。その落差はどこから来ているのか。

批判の理由は色々あった。まずタイトルが卑猥だというものだが、これは言いがかりのようなもので、殆ど批判とは言えなかった。莫言自身が批判として受け取った内容を、日本語訳のあとがきのなかで箇条書きで述べているが、単純化して言えば、「反共産党」と「性変態」への拒絶反応ということに尽きるようだ。たしかに、この小説の中では、共産党は好意的には描かれておらず、むしろ批判的な描かれ方をしているのだが、それはたまたま現代中国を共産党が支配していることを反映しているのであって、莫言自身は、共産と言うよりは、権力の無慈悲性を批判の対象にしているつもりだったろう。実際この小説は、抗日戦時代に始まり、改革開放時代にいたるまでの中国現代史をカバーしているのだが、抗日戦時代には日本軍の残虐性が非難の対象になり、国共内戦時代には国民党への批判が見られ、毛沢東時代には紅衛兵を始めとした極左集団の無茶苦茶ぶりが批判的に描かれる。要するに、時代ごとに支配的な階級となった人々の、権力の無謀な振い方が俎上に載せられているわけで、共産党だけが批判の対象になっているわけではない。

「性変態」という批判については、莫言はある程度素直に受け入れているようだ。この小説の主人公上官金童は、女の乳房に異常な執着をもっており、その執着から生涯解放されることがなかったわけで、その意味では「性変態」小説と呼ばれる理由はある。金童の乳房への執着は、母親の乳房への執着が固定したものだったが、かれにとって母親の乳房とは、自分と世界とのかかわりを媒介してくれるものだったのだ。というのもかれは、自分をとりかこむすべてのものを、母親の乳房との対比で判断しているのである。自分にとって快いものは母親の乳房と同質のものを思い出させるのであり、自分にとって敵対的なものは、自分を拒絶する乳房を連想させるのである。タイトルに乳房と並んでいる肥臀のほうは、豊乳ほど重要な役割を果たしていない。第一主人公の金童は乳房に取りつかれることはあっても、女の臀部に取りつかれることはないのだ。それではなぜ、臀部を乳房と並んで出したのか。おそらく臀部は乳房と並んで女そのものをシンボライズしているからだろう。この小説は、女に惑溺する男の物語りなのである。

中国人の男には、たしかに女に惑溺する傾向があるようだ。だから金童だけが異常なのではない。ある意味すべての中国男が異常なのである。すべてのものが異常だと言うのは形容矛盾かもしれない。異常とは通常からの変移をさすわけだから、通常そのものが異常ならば、それを異常とは言えないだろうからだ。実際莫言自身、中国男の魂には、一個の阿Qとともに、一個の上官金童がひそんでいるといって、大多数の中国男が、金童的な性変態の傾向をもっていると言っているのである。

そういう変態性向の傾向は、日本人には見られないのではないか。莫言は、谷崎潤一郎や三島由紀夫の名をあげて、日本人にも性変態の傾向が見られると指摘しているが、谷崎や三島の小説に出て来る変態的な人間は、日本では稀有な例といってよい。そのような例を取りあげている小説は例外なのであって、だからこそ谷崎や三島は奇貨としてちやほやされるのである。日本人の男の全部が、谷崎や三島の小説に出て来るような変態的人間ばかりだったら、そんなものにわざわざ夢中になることもないわけである。

ところが中国人の男のほとんどすべては、莫言によれば、上官金童と同じく性変態的な人間だというのである。そんな指摘を面と向かってされれば、穏健な中国人でも不愉快になるに違いない。自分の中の変態性に気付いている男でも、それを他人から面と向かって指摘されたら、立腹するに違いないのだ。「豊乳肥臀」がスキャンダルを巻き起こした挙句、出版禁止処分までくらったわけは、この小説が中国男子全体を侮辱していると、圧倒的多数の中国人に受け取られたせいではないのか。中国人だけの間柄なら冗談にすませられるかもしれないが、この小説は、現代中国文学の代表作という触れ込みで、世界中で話題になった。ということは、中国人男の性変態的な性格が世界中に暴露されたも同じことだ。それがいかに中国人の民族感情を傷つけたか、ある程度想像がつく。

とはいっても、莫言はこの小説がもとで中国の文壇から抹殺されたわけではない。かれはいまだに共産党の幹部として、中国文壇を指導する立場にあるし、かれがノーベル文学賞をとった時には、中国共産党も祝福したほどだ。そこは同じ中国人でも、中国共産党について批判的なメッセージばかりだしていた高行健がノーベル文学賞をとったときには、それが反中国的だといって拒絶反応を示したのとは大きな違いである。







コメントする

アーカイブ