吉沢誠一郎「清朝と近代世界」:シリーズ中国近現代史①

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岩波新書版の「シリーズ中国近現代史」の第一巻は「清朝と近代世界」と題して清朝の歴史を対象としている。清朝は、現在の中国の直前の王朝であったから、中国近現代史の前触れとして清朝の歴史を取りあげるのは自然なことである。日本の近現代史を幕末から始めるようなものだ。だが、この本は(中国近現代史に直接つながる)清朝の末期だけではなく、清朝の歴史全体をカバーしている。それには理由があると著者は言う。中国という国家概念が成立したのは清朝時代のことであって、その清朝の時代にほぼ現在の中国の領域が固まった。明代以前には、満洲地域やモンゴル、西域やチベットは、かならずしも現在言われているような意味での中国の領域には含まれていなかった。それらの領域は、民族的にも異なり、従って中国の王朝が直接統治していたわけではなかった。清朝になって初めて、それらの領域とそこにすむ民族とが、中国の王朝の統治に組み込まれたのである。したがって、清朝こそが現代中国国家の領域と民族構成とを直接に決定したのである。そうした意味で清朝は、中国近現代史の前提というか、その不可欠の一部だというのが、著者の基本的な見方である。

清朝は女真族が起こした王朝である。中国では、漢族以外の異民族が統治するというのは珍しいことではない。というか、秦漢以降に限ってみても、異民族の支配した時代は全歴史の半分を占めるといってよいほどだ。明の前にはモンゴル人の元が中国を支配していた。こうした異民族による支配はさまざまな体制をとった。元の場合には、アジア大陸全体にまたがる大モンゴル帝国の版図の一部としての元朝というものがあった。

清朝の支配体制の特徴は、著者によれば、統一原理に基づいた一元的な支配ではなく、各民族に応じた多様な形態をとったということだ。漢民族に対しては、辮髪をはじめとした女真族の文化を強要するなど、かなり抑圧的な姿勢をとったが、モンゴル族やチベット族に対しては、それぞれの文化を尊重するなど、融和的な姿勢をとった。いまの中国には、漢族を含めて56の民族があるといわれるが、それらに対する民族政策というべきものの原型を、清朝がとったということらしい。

女真族の人口は、圧倒的に少数派であったから、女真族が統治の総てを担当するというわけにはいかなかった。清朝の統治体制の特徴は、八旗と呼ばれる女真族の武力組織を中核にしながら、膨大な領土の統治には漢族の官僚機構を利用した。官僚機構は、あまり強力ではなく、したがって中央政府が直接すみずみまで統治する能力はもたなかった。統治の大部分は、各地方の有力者が担ったようである。清朝の官僚機構は、各省の長官から各県の長官まで幅広く人材を派遣したが、かれらは多分に名誉職的であって、実際的な統治の実務は地方の有力者が担っていた。

そんなわけで、清朝の統治システムは、かならずしも強力だったわけではない。それが、西欧諸国の侵略を許した最大の要因だったようだ。もっとも清朝は、西洋諸国にやられっぱなしというわけでもなかった。1870年代以降は、西欧諸国との関係も安定し、それを踏まえて、西域の領土保全を積極的に図ったり、軍事力の強化に努めたり、強い国家意識を感じさせる動きもあった。そんなわけだから、日清戦争が起きた時の、日清両国の国力は,清のほうがかなり強かったのである。にもかかわらず清が敗れたのはどういうわけか。やはり、清朝が基本的には異民族支配の体制であり、国民が一丸となって国家意識を共有することがなかったというのが、最大の理由ではないか。清朝の支配者たる女真族には、国家意識より女真族としての民族意識のほうが強かったし、また、被支配者たる漢族には、統治の当事者としての意識が希薄だったのではないか。

この日清両国の関係について、著者はとりわけ力を込めて書いている。日本はすでに徳川時代に千歳丸を上海に派遣して清の実情を視察するなど、情報収集に努めていた。千歳丸には高杉晋作が乗り込んでいて、上海が英仏の属領と化したことや、それを許した清朝の軍備の弱さに注目した。高杉は、日本も同じ目にあいかねないと危機感を覚えた。明治政府も中国に注目し、早い時期から外交交渉をもった。中国側は曽国藩が窓口になり、日清がほぼ対等の条約を結んだ。中国側では、日本が西欧に与せず、中国と共にアジアの安定に寄与することを望んだが、日本には中国を蔑視するところがあり、また台湾に武力進出するなど好戦的な行動をとったので、中国としては猜疑心をもたざるを得なかった。そうした行き違いが、やがて日清戦争に発展するわけである。

清朝が西欧諸国の侵略を許した中で、もっとも深刻だったのは、ロシアへの領土割譲だった。ロシアとの国境はもともとはっきりしていたわけではないが、おおむねヤブロノイ山脈からスタノボイ山脈にかけての稜線が事実上の国境だった。それが1858年のアイグン条約によって黒竜江左岸の広大な地域がロシア領とされ、その後更に北京条約によってウスリー川以東の沿海部がロシア領にされた。このような不平等条約をなぜ清朝が許したのか。いまとなっては、恢復できない損害である。

なお、人口であるが、清朝の版図の人口は18世紀に大いに増大し、19世紀初頭には4億人に達した。日本の人口は、徳川時代を通じてほぼ横ばい(約三千万人)だったが、それには生産力の限界が働いた。中国で人口爆発が起きたのは、清代を通じて生産力が高まったためだという。





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