貨幣の資本への転化:資本論を読む

| コメント(0)
資本とは何かについて、マルクスは形式的な定義はしていないが、商品流通から生まれ、貨幣という形態をとり、しかも自己を増殖するものというふうに捉えている。単純化して言えば、自己の価値を増殖する貨幣(自己増殖する貨幣)ということになる。資本が貨幣であるのは、資本主義社会においては、貨幣こそが価値の一般的な現象形態であるからだ。

一方、(主流派の)近代経済学においては、資本についての統一的な定義はない。大きく分けて、二つの説がある。一つはマルクス同様貨幣に着目したもので、基金主義的定義と言われるもの。もう一つは生産手段に着目したもので物質主義的定義と言われるものだ。どちらも生産を含め、経営を推進するうえでの資源とすることには違いはない。その資本の概念を実務的に表現しているのが貸借対照表だ。これは日々の経営にとって不可欠の書類であるから、これに表現されている資本のあり方が、今日の経営者の意識にとって平均的な資本の概念ということになろう。

資本は貸借対象表の上では、負債と同じ欄に計上される。一方固定資産や機械類などは資産の欄に計上される。金を借りて、その金で生産手段を手に入れ、それらを組み合わせて経営活動を行い、それによって利益を得る、というような考えになっている。利益は剰余金として資本にかさ上げされる。だから今日の平均的な経営者にとっては、資本は貨幣というイメージが強いのではないか。

マルクスに戻れば、資本は商品流通を出発点とする。商品流通こそが、貨幣を資本に転化させるのである。そのプロセスをマルクスは、またもや図式を通じて説明している。単純な商品流通は、
 W-G-W
という形をとるが、これを裏返すと
 G-W-G
が得られる。前者は、商品を売って、その金で別の商品を買うという動きをあらわしている。後者は、金を払って商品を買い、さらにその商品を売って金を得るということを意味している。この二つのプロセスは全く同じことをあらわしているようにも見えるが、また実際そのような場合もあるが、しかし決定的な点で違いがある。前者のプロセスでは、先に売った商品の価値と、後で買った商品の価値は同じである。プロセス全体を通じて等価交換が行われるだけだからである。ところが、後者のプロセスでは、価値の増殖が生じる場合がある。それを厳密にあらわすと、
 G-W-G´
ということになる。G´はG+ΔGであって、ΔGの分だけ価値が増殖しているのである。

なぜ、このようなことが起きるのか。その疑問に答える形で、マルクスは貨幣の資本への転化を説明していくのである。

 G-W-G
のプロセスにおいて、Wがそのまま横流しされるだけなら価値の増殖は起こらない。売買は基本的には等価交換だからである。だから、これが
 G-W-G´
となるためには、Wに変化が起らねばならない。そうでなければ、Wが価値を増殖させることはない。この増殖をマルクスは幼虫の蝶への成長といっているが、ある条件がないとそれが起らない。その条件は流通部門を前提にしていなければならないが、しかし単純な流通、つまりすべての商品が等価交換されるという条件のもとでは起こらない。そこで、これが問題の条件だといって、マルクスはヘーゲルの有名な言葉を引用して見せるのだ。
 ここがロドスだ、さあ飛んでみろ!

すべての商品がただ等価交換されるばかりなら、価値の増殖は決して起こらない。価値の増殖が起こるのは、等価交換以上に価値を算出するような商品がある場合だけである。ところがそうした商品がある、とマルクスは指摘する。人間の労働力だ。人間の労働力は、自分の価値以上の価値を生みだすことができる。その価値をマルクスは剰余価値と呼んだ。そして剰余価値の生ずるメカニズムを検討した。

労働力も商品になるというのが資本主義経済の最も大きな特徴だ。商品としての労働力の価値は労賃という形をとる。労賃は労働力を再生産するに足る費用である。労働力の再生産とは、人間が労働力の担い手として存在できるための条件である。それには色々な水準がありうる。一人の人間が人間として最低限の生き方をするための費用ということもあるが、それでは長期的に見て人間の数は減ってしまい、ついには労働力の供給ができない事態に陥る。これは資本にとっても不都合なことだ。そこで労働力を将来にわたって絶やさないために、労働者が家族を養うことができる水準であることが最低限の労賃の水準になる。これに加えて、労働者の生活の文化的・社会的な規準というものも考慮されるだろう。単に人間を再生産するに必要な水準では、人間は家畜と異ならぬ生活を強いられるが、果たしてそれが一国の経済を持続させるために相応しいあり方なのか、問題があるだろう、

ともあれ、労働力の担い手としての人間は、労働力を提供するのと引き換えに、自分を資本に売るのである。それを資本のほうでは、商品としての労働力を、その価値に相応しい値段で買ったわけだから、その使用価値である労働を、自分の好きなように処分することができる。つまり自分の支配下で労働させるわけである。その労働の過程で剰余価値が生じる。剰余価値というのは、労賃を超えて生じる価値のことである。

この関係の中には、一見して不都合なことはない。資本は労働力を、その価値に見合った値段で買ったわけであり、労働力の売り手である人間も、自分の自由な意思に基づいて自分の労働力を売ったわけである。マルクスは言う、「貨幣が資本に転化するためには、貨幣所持者は商品市場で自由な労働者に出会わなければならない。自由というのは、二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力のほかには商品として売るものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味で、自由なのである」

かくて資本は自由な労働力を前提にして発生するということが明らかにされる。資本と自由な労働、剰余価値を生みだす労働とは、不可分の関係にあるわけだ。どちらが欠けても資本主義経済は成り立たない。「資本は、生産手段や生活手段の所持者が市場で自分の労働力の売り手としての自由な労働者に出会う時にはじめて発生するのであり、そして、この一つの歴史的条件が一つの世界史を包括しているのである。それだから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を告げ知らせているのである」

資本の利益を代弁している今日の主流の経済学は、決してマルクスのようには考えない。かれらもマルクス同様、資本の目的が利潤の獲得にあることは認めるが、しかしその利潤が、労働者のもたらす剰余価値を源泉にしているとは認めない。労働力は、経営上の特権的な要素ではなく、数ある要素、生産業であれば、それは工場や機械などの固定資産や、原料などの流動資産などだが、労働力はそれら諸々の要素と並ぶ一つの要素に過ぎない。この要素を組み合わせることで生産物を得るわけだが、それから得られる利潤は、これら要素全体とそれを組み合わせて企業を運営する経営者の才覚などの組合せ全体から生まれるとする。

これに対してマルクスは、労働力以外の生産要素は、自分のもともとの価値を生産物に移行させるだけで、そこに新たな価値を加えることはないと主張する。なぜなら、生産要素も商品であり、すべての商品は等価交換されるわけだからである。自分の価値を超えて新たな価値を生みだすものは、労働力という商品以外にはない。その理由は、労働力においては、それ固有の商品価値と、その使用価値とが一致しないことにある。






コメントする

アーカイブ