労働力価格の全般的下落:資本論を読む

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資本主義経済システムにおいては、労働力も商品としてあらわれる。商品であるから当然価格がつく。労働力の価格は賃金という形をとる。その賃金はどのようにして決まるか。資本の利益を代弁する主流派の経済学は、賃金も労働に対する需要と供給のバランスによって決まるとする。これに対してマルクスは、賃金は労働力の再生産に必要な金額で決まるとした。

労働力の再生産といっても、その費用は一義的に決まるものではなく、さまざまな要因が絡んで来る。一番単純なのは、一人の労働者がとりあえず生きてゆくために最低限必要な費用である。これには日常生活を維持するのに必要な最低限の費用、食費とか住居費とかが含まれる。しかしそれでは、個人としての労働者の再生産が行われるだけで、階級としての労働者の再生産はできない。労働者が階級として再生産されるためには、一定程度の家族の再生産が必要である。それでこそ、資本主義経済が持続可能になる。

しかし、単に動物的存在として再生産が行われるだけでは、労働者は耐えがたいと感じるであろう。労働者といえども人間であるから、最低限生きていくために働くだけでは満足しない。人間にふさわしい文化的な欲求や気晴らしへの欲求もある。そういうさまざまな欲求に対応できるだけの支払いを労働者は求めるだろう。一方資本家のほうは、なるべく安く済ませたいと思う。そこにせめぎあいが生じる。それゆえ賃金の水準は、資本と労働との対立を通じて決まって来る。その最低水準は、労働者個人が食えるに耐える水準であり、最高水準は剰余価値の上限ということになる。その範囲内で、資本と労働とのせめぎあいが具体的な労働力価格つまり賃金を決めることになる。

資本と労働とが正面から向き合えば、資本の方が圧倒的に強い。したがってそういう情況においては、賃金は最低水準に向って限りなく近づく傾向をもつ。それも、家族の維持を考慮しない、労働者個人の当面の再生産に必要な水準まで下がる傾向がある。それを是正する要素としては、労働者の反抗ということもあるが、基本的には外部からの規制がものを言う。具体的に言えば、国家による賃金決定への介入である。じっさい、賃金をめぐる歴史は、国家による労働政策の歴史であったといってよいくらい、国家が賃金の決定に介入してきたのである。

国家が介入する理由はいくつかある。一つは階級対立の緩和である。国家は建前上国民全体を代表するものであるから、その国民が階級に分断され、互いにいがみ合っているような状況は望ましくない。そこで階級対立を緩和させるために、資本に対して一定の譲歩を迫る。つまり賃金の上昇を呑ませるわけだ。

また人口減少への憂慮ということもある。賃金の水準が家族の扶養を保障しないものであれば、労働者は階級として再生産されず、人口は減少するであろう。それは国家にとって望ましいことではない。そこで労働者の家族が再生産できるだけの賃金の水準を資本に呑ませるように動く。それさえしない政府は、国家を持続させることができない。

もう一つ、本質的に重要な要素がある。国家意思実現への国民の動員という要素だ。これは特に戦争にさいして典型的になる。戦争を遂行するためには、国民を総動員しなければならないが、そのためには労働者階級にも考慮を払わねばならない。戦死したら家族が路頭に迷うようでは、労働者は戦場へ行くことに抵抗するだろう。だから彼らが安心して戦場に行けるように、賃金の上昇とか社会福祉の充実といったものをはからねばならない。

実際20世紀の先進諸国家は、以上のような衝動に従って、手厚い福祉国家を築き上げてきたのである。その衝動に、社会主義体制への対抗という動機が加わる。社会主義国家の登場によって、資本主義国家はそれとの体制選択を迫られ、自らの優位を国民に納得させるために、手厚い福祉国家をめざさざるを得なくなったのである。

このように、国家がそれ固有の動機にもとづいて、賃金の決定や社会福祉のシステムを築いてきたというのが、20世紀の歴史だったということができる。20世紀の歴史は、基本的には国家を中心として展開してきたのである。日本についてみても、国家の役割は圧倒的だった。日本は絶えず戦争をしてきたということもあり、国民を戦争に動員するために、手厚い社会福祉を築き上げた。戦後もそうした社会福祉のシステムは、歴史の遺産として引き続き機能してきた。これに、労働の分野では、終身雇用を中心とした日本的なシステムが加わったのだが、この日本固有のシステムは、日本の歴史の特殊性を反映したものだったと小生は思っている。徳川時代の藩閥意識は近代になってもなかなか消えず、藩による武士団の丸抱えシステムを、企業が受け継いだという側面が強く指摘されるのである。

ところが、21世紀になると、グローバリゼーションが一段と進み、国家が唯一の枠組みではなくなってきた。資本は国家の枠組みを超えて活動するようになった。そのことに伴い、労働の分野でもさまざまな状況が生じた。資本は少しでも安い労働力を求めて、後進国へと進出する。近年の日本資本の海外進出、特に中国への進出はその典型的なものだ。日本国内では得られない利潤が後進国では得られるのだ。

これにともなって、労働をめぐって新たな競争が生じる。その競争は、先進諸国の労働力価格を低下させる方向に働く。この競争は、グローバリゼーションがもたらしたものだから、国家によって完全にコントロールするわけにはいかない。それにともなって、国家による賃金決定への介入にも限界があらわれる。それが賃金の一層の低下をもたらす。

これに加えて、社会主義国家の没落がもたらした要因もある。社会主義国家との競争を強いられていた時には、資本主義国家はある程度労働者のことを考えねばならなかった。でなければ体制を持続できないという危機感があったからだ。ところが、社会主義国家が没落することで、資本主義経済は競争相手を持たなくなり、そのことで、資本の論理がむき出しに働く傾向が強まってきた。

資本の論理とは、労働についていえば、無際限に搾取するというものである。無際限といってもおのずから限度がある。その限度とは、労働者を人間として生き延びさせるというものである。それも、個々の資本としては、労働者が個人として確保できればよいので、とりあえずは、彼が最低限食えるだけの金を払ってやればよいと考えがちだ。そういう論理がはびこるようになると、労働力価格は全般的に下落するようになる。そのため、労働者が階級として再生産される見込みはなくなる。その結果は人口の減少となってあらわれる。

じっさい、日本では深刻な人口減少が進んでいる。それは小泉政権以来定着してきたグローバリゼーションへの適応と新自由主義の蔓延がもたらしたものと言える。







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